北京大学竹簡の概要

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『北京大学蔵西漢竹書について』 中国出土文献研究会

三、北京大学竹簡の概要

北京大学竹簡は、盗掘の結果、流出した竹簡を、二〇〇九年一月十一日に北京大学が入手したもので、関係者からの寄贈とされるが、その経緯は未詳である。

一月十一日に北京大学に搬入された竹簡は、さっそくその翌日から整理作業が始められ、三月には、全竹簡の写真撮影が行われた。その過程で、竹簡群の中に算籌と漆器の残片が混じっていることが判明した。また、竹簡上に繊維の残留痕が見られるものがあり、しかも、編綫の痕跡が文字にかぶっている竹簡が多く見受けられたことから、これらの竹簡は、編綴した後に文字を記したものではなく、文字を記した後に綴じたものと推測される。編綫も一部残っていたが、それは、我々が想像していたものより太く、三つ編みのようになっていた。

竹簡の総数は三三四六枚、完整簡は二三〇〇枚以上(うち完簡は一六〇〇余枚)。郭店楚簡が七三〇枚(有字簡)、上博楚簡が一二〇〇余枚であるから、それらをはるかに上回る相当の分量であることが分かる。

数術類の竹簡に「孝景元年」(前一五六年)と記した紀年簡があることから、竹簡の年代は前漢中期、その多くは武帝時代(前一五七(在位、前一四一)~前八七)に書写されたものと考えられる。ちなみに、馬王堆三号漢墓は、前一六八年頃の造営で、馬王堆帛書『老子』甲本は前一九五年以前に筆写されたものであると考えられている。

竹簡の形状は、長・中・短の三種に分類でき、簡端はいずれも平斉。簡長は、長簡が約四十六㎝で、漢代の二尺に相当し、三道編綫。内容は、主に数術類。中簡は三十~三十二㎝で、漢代の一尺三寸~四寸に相当し、三道編綫。内容は、主に古代典籍。短簡は約二十三㎝で、漢代の一尺に相当し、両道編綫。内容は、医書類である。

出土地については、未詳であるが、朱教授の説明では、江蘇、安徽辺り(南方地帯、漢代の楚)ではないかとのことであった。

炭素14の年代測定は行われていないようであるが、これは、竹簡の状況や謹直な漢隷の字体、そして何より紀年簡が出土したことにより、とりあえずその必要性がないと判断されているからではなかろうか。

内容は、すべて古代の書籍で、『漢書』芸文志の分類する「六芸類」「諸子類」「詩賦類」「兵書類」「数術類」「方技類」に及ぶ。こうした広範な領域にわたる文献が含まれていたのは、きわめて貴重であり、中国思想史はもとより、中国史、文学史、文字学など多方面の研究に大きな影響を与えることが予想される。

以下では、朱教授の説明の順序に沿って、各々の内容を、我々の実見の結果や筆者(湯浅邦弘)の考察も踏まえて紹介したい。

(1)六芸類

六芸類に分類されたのは、『蒼頡篇』と『趙正(政)書』である。『蒼頡篇』については、小学書研究の立場から、研究会メンバーの福田哲之が後述する。
『趙正(政)書』は古佚書で、今回はじめて明らかになった始皇帝時代の歴史文献である。竹簡は五十余枚、総字数は約一五〇〇字。書名は、竹簡に記されていた。内容は、始皇帝(趙政・嬴政)の死と秦朝滅亡にまつわる内容で、始皇帝・胡亥・李斯・子嬰などの言動が記述され、始皇帝臨終の際の遺命や李斯の獄中の上書も含まれているという。

文中では、始皇帝と胡亥は、「秦王趙正(政)」「秦王胡亥」と称されており、「始皇帝」「二世皇帝」とは記されていないため、作者が秦朝の正統性を認めない立場にあったと推測される。『史記』蒙恬列伝・李斯列伝に見える部分もあり、司馬遷が『史記』を書いた際の参考文献の一つではないかと考えられ、資料的価値が高い。

(2)諸子類

諸子類でまず特筆されるのは『老子』である。竹簡二一八枚、約五三〇〇字(重文を含む)。「老子上経」「老子下経」の篇題が竹簡背面に明記されており、それぞれ「徳経」「道経」に対応する。各章冒頭には、章を分ける符号があり、各章の末尾は留白となっている。欠損している竹簡は、全体の一パーセント、竹簡にして二本分、約五十~六十字くらい。ほぼ完璧な『老子』古本である。これは、馬王堆帛書・郭店楚簡に次ぐ第三の『老子』古本であり、これまでで最も保存状態の良い漢代の『老子』テキストであると評しうる。また、各章の内容や分章は現行本と異なる点もあり、『老子』の整理・校勘にきわめて有力な資料である。

なお、現在、この竹簡『老子』の釈読を担当している韓巍講師によると、馬王堆漢墓帛書『老子』とこの竹簡本とを対照した結果、「徳経(上経)」「道経(下経)」という順序、および各章の配列は基本的には同様であり、「道経」末尾の一箇所のみ順序の異なる点があるとのことである。いずれにしても、今後『老子』研究を進めようとする場合には、最重要のテキストとなることは間違いない。

次に、古佚書『周馴(訓)』。竹簡二〇〇余枚、約四八〇〇字。竹簡に篇題が明記されている。『漢書』芸文志の道家類に「『周訓』十四篇」と記録されており、それに比定できる可能性がある。

内容は、「周昭文公」(戦国中期の東周の君、昭文君ともいう)が「恭太子」(西周の君、武公の太子)に訓戒するというもので、上は堯・舜・禹から下は戦国中期に至るまでの歴史事項が記されている。これまで見られなかった商湯から太甲への訓戒、周文王から周武王への訓戒などを含む。また、君たるの道を述べる長編の文章もある。戦国晩期に編纂され、貴族子弟に対して政治教育を行うために用いた教材であると考えられる。さらに、周文王に四人の子がいたとする点が、従来の文献の記載と異なっており、重要な意義を有する。

この種の文献としては、二〇〇九年、『文物』誌上で先行公開された清華大学竹簡の「保訓」がある(注2)。「保訓」は、周文王が武王へ訓戒する内容を記したものであるが、竹簡はわずかに十一本。これに対して『周馴(訓)』は、より豊富な訓戒集と言える。

朱教授の説明では、こうした歴史故事集とも言える文献は、とても「道家」とは思えず、『漢書』芸文志に記録される「『周訓』十四篇」に当たるのかどうかについては疑問が残るとのことであった。

ただ、『漢書』における「道家」の定義は、「道家者流は、蓋し史官より出ず。成敗存亡禍福古今の道を歴記し、然る後に要をと 秉り本を執り、清虚以て自ら守り、卑弱以て自ら持するを知る。此れ君人南面の術なり」というものであり、我々が現在意識するいわゆる「老荘」風の思想ではない。とすれば、こうした文献が、当時の人々にとって「道家」に属すると考えられていた可能性は充分にあると言えよう。

さらに、古佚書『妄稽』も注目される。竹簡一〇〇余枚、約三〇〇〇字の文献である。竹簡に篇題が明記されている。士人家庭内部における主人「周春」・妻・妾の葛藤が描かれており、現時点で最古・最長の小説と言える。天水放馬灘秦簡にも小説『志怪故事』が含まれているが、短編であり、内容も「志怪」である。これに対して「妄稽」は、家庭内の日常が描かれているという点で、より近代的な意味での小説に近い。

篇題の「妄稽」とは、妻の名で、「爲人甚醜以悪」つまり容貌も心根も醜悪であるとされている。対して妾の名は「虞士」であり、こちらは美人で性格も良いとされているという。すなわち、明確なキャラクター設定がなされた小説なのである。従来、中国の小説は、唐代の志怪小説あたりを中心に説明されてきたが、前漢武帝期以前にすでにこうした文学性を有する小説が存在していたことは大いに注目される。換言すれば、こうした近代小説の先駆とも言えるような小説が古くからあったにもかかわらず、なぜその後、継承され、発展していかなかったのかとの疑問が生ずるとも言えよう。

(3)詩賦類

詩賦類としては、『魂魄賦』がある。竹簡五十余枚、約一二〇〇字。篇題は見つかっておらず、「魂魄賦」とは整理者による仮称である。人格化された「魂」と「魄子」との対話形式であるが、『楚辞』のような文ではなく、四字句を連ねた明らかな漢賦であるという。内容は、魂が魄を旅に誘うが、魄は病弱を理由に断る。だが、最後は魂の説得に応じて一緒に旅立つというもので、文学性が高いとされる。これまでに出土した簡帛文献の中では最古・最長の賦である。

(4)兵書類

篇題未詳の兵書が一つ含まれている。竹簡十余枚。『漢書』芸文志は、兵書を「兵権謀」「兵陰陽」など四つに分類しているが、この文献は、その内の「兵陰陽」家に分類できる兵書であるとされる。その理由は、銀雀山漢簡『地典』に類似しているからであるという。

少し横道にそれるが、ここで、『地典』について概説しておこう。銀雀山漢墓竹簡は、冒頭にも紹介したとおり、一九七二年に発見され、その内の『孫子兵法』『孫臏兵法』『尉繚子』『晏子』『六韜』『守法守令等十三篇』が一九八五年、『銀雀山漢墓竹簡[壹]』(銀雀山漢墓竹簡整理小組、文物出版社)として公開された。その際、これ以外にも、第二輯に「佚書叢残」が、また第三輯に「散簡」「篇題木牘」「元光元年暦譜」が収録されると予告されていたが、その後、長らく続輯は刊行されなかった。

二〇一〇年一月、『銀雀山漢墓竹簡[貳]』(銀雀山漢墓竹簡整理小組、文物出版社)が刊行された。第一輯で予告されていたとは言え、第二輯はほとんど何の前触れもなく、突然公開された。それは、銀雀山漢墓竹簡の発見から三十七年後、『銀雀山漢墓竹簡[壹]』の刊行から二十四年後のことであった。その内容は、第一輯で予告されていた「佚書叢残」に該当するもので、全体は、「論政論兵之類」「陰陽時令・占候之類」「其他」の三部に類別されている。

この内、「論政論兵之類」は五十篇からなる文献で、その十三番目の篇として『地典』が収録されている。「地典」とは、黄帝に仕えた「七輔」の一人で、この篇では、黄帝と地典とが用兵について問答を行っている。竹簡には断裂が多く、全体を精確に読み取るのは難しいが、たとえば、黄帝が「吾れ将に師を興し兵を用いんとするも、其の紀綱を乱す。請う其の方を問わん」と問いかけるのに対して、地典は、「天に寒暑有り、地に鋭方有り……天に十二時有り、地に六高六下有り。上帝以て戦い勝つ。……十二者相勝つに時有り」などと答える。

こうした内容をとらえて整理者は、銀雀山漢墓竹簡『地典』を「兵陰陽」家の兵法と考え、また、それに類似する内容の北京大学竹簡文献を「兵陰陽」家の兵書と考えたわけである。但し、銀雀山漢墓竹簡「論政論兵之類」全体や『地典』の思想的内容については、まだ充分な検討が行われておらず、現時点で、北京大学竹簡に含まれるこの文献をそうした性格の古代兵書と位置づけて良いかどうかにはやや疑問が持たれる。

(5)数術類

北京大学竹簡の約三分の一の量を占めるのが、数術類の文献である。篇題が確認されている主な文献として、まず『日書』『日忌』『日約』がある。これらは、竹簡約一三〇〇枚。綴合後の完整簡は約七〇〇枚。特に、『日忌』と『日約』は初めて発見されたものである。『日書』は、大多数がこれまでに出土した秦漢の『日書』にも見られる内容であるが、これまで見られなかった図や文字も含まれている。篇題は朱書されており、また複数簡にまたがる「占産子図」も鮮やかな朱色の人体図である。

そのほか、数術類に分類される文献の内、篇題が確認されているのは、以下のような文献である。

  • 『椹(堪)輿』……内容は『日書』に類似し、後世の「看風水」の堪輿家とは異なる。
  • 『六博』……博局を用いて占卜を行う書で、尹湾漢簡『博局占』に類似する。
  • 『雨書』……風雨気象占候の書。
  • 『荊決』……卜筮の一種であり、算籌(計数に用いる小片)を使って占いを行う書。
  • 『節』 ……四時節令について述べる『月令』に類似
    した文献。

(6)方技類

最後に医学関係の文献がある。竹簡七〇〇余枚。そのうち完整簡は約五三〇枚。各種疾病を治療するために記された古代の医方書であり、方技類の「経方」類に属す。章ごとに分章の記号と数字の編号があり、「一八七」までが確認されている。本文の前には単独の「目録」一巻があり、編号と医方名が記載されている。その内容は、内科・外科・婦人科・小児科など多くの種類の疾病の治療方法。病名・症状・薬の種類・数量・漢方薬の調製方法、薬の服用方法と禁忌に関することも含まれている。

注目すべきは、「秦氏方」「泠游方」「翁壹方」という篇名が見られる点である。これらは古代名医の名であり、その中の「秦氏」とは戦国時代の名医「扁鵲」ではないかと考えられている。

これら医書類は、馬王堆帛書『五十二病方』と密接な関係があり、馬王堆帛書に次いで、最も豊富な中国医学の資料であると評価できる。

(湯浅邦弘)

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