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山東省博物館

中国山東省学術調査報告 INDEX

中国研究集刊 麗号(総四十八号) 平成二十一年六月 一七二 ~ 一八九頁

三、山東省博物館

九月四日、我々は濱州のホテルを朝七時半に出発、高速道路で省都の済南へ向かい、午前十時すぎに山東省博物館に到着した(写真A)。前述の通り、山東省博物館には渡航前に手紙で訪問を連絡してあった。館長の魯文生氏は出張中とのことであったが、文物管理部主任の王之厚氏が代わって我々と会い、銀雀山漢墓竹簡を見せてくださることになっていた。

写真A 山東省博物館

写真A 山東省博物館

山東省博物館は、中華人民共和国の建国後最初に設立された省レベルの博物館で、一九五四年に設立、一九五六年に公開された。現在の建物は、一九九一年八月に建築が始まり、一九九二年十月から公開されているものである。収蔵品は十数万件に及び、その中心は、青銅器・画像石・陶磁器・簡牘などの歴史的な文物とされる。

なお、本博物館のパンフレットには、「現在建設中の山東省博物館新館予想図」のイラストが示されていた。但し、イラスト以外に説明はなく、また敷地内で現在建築工事が行われている様子は確認できなかった。

博物館に到着後、我々は保管倉庫のある建物の一室に通され、そこで銀雀山漢墓竹簡を実見した。我々が実見した竹簡は二十枚である。(写真B・写真C)

竹簡は、薄いガラス板によって表・裏両面から挟まれて、糸で縛って固定された状態で、保存のための液体を満たした試験管に一枚ずつ入れられていた。試験管は、約三十センチの長いものが十七本、そのおよそ半分程度の短いものが三本であった。合計二十本の試験管は、ふた付のケースに並べて納められていた。

写真B 銀雀山漢墓竹簡の実見

写真B 銀雀山漢墓竹簡の実見

写真C 銀雀山漢墓竹簡の実見

写真C 銀雀山漢墓竹簡の実見

二十枚の竹簡のうち、完簡は十一枚、残簡は九枚である。完簡と六枚の残簡は長い試験管に、三本の短い残簡は短い試験管に、それぞれ納められていた。各試験管には、口のやや下の部分に、白い文字で二~三桁のアラビア数字が記されていた。整理のために記されたものと推測される。但し、二十本の試験管に記された数字は連番ではなかった。我々が実見したものは、比較的状態のよい竹簡が選ばれているのではないかと思われた。

なお、実見に当たっては、竹簡・試験管そのものの写真撮影が禁止された。竹簡・試験管の様子については、『大黄河文明の流れ 山東省文物展 図録』(西部美術館・朝日新聞社、一九八六年)一三二頁のカラー写真を参考されたい。我々が実見したものとほぼ同じである。

実見の際、完簡の編綫は三道であること、契口は右契口であること、また竹簡に「孫子曰」や「威王問孫子曰」などと記されていることが確認できた。おそらく実見した竹簡は全て『孫★[ピン]兵法』の一部と思われたが、斉孫子・呉孫子のいずれの文献に属するものであるのかについて、特に説明はなかった。

竹簡の実見に続いて、王之厚氏と面談した(写真D)。銀雀山漢墓竹簡に含まれている多数の残簡について、現在調査・研究が進展しているかどうかを質問したところ、王氏の回答は以下の通りであった。

銀雀山漢墓竹簡は、一九七二年の出土の後、研究については北京が中心となり、山東省博物館は竹簡の保存・管理を中心に取り組んでいる。現在竹簡は、本博物館の専用の倉庫において保管している。竹簡は保存のための液体を充たした試験管に入れているが、出土当時、北京の胡継高氏と連絡を取り、一部の竹簡について脱水加工を行った。ところが、竹簡が多量で、資金的な問題もあったため、脱水加工を行った竹簡は一部に止まった。七〇年代の末頃には、脱水加工を加えるべきかどうかの論争もあり、また脱水加工を行っても行わなくても、竹簡は五十年しかもたないとの見方があった。その後、資金的には問題が無くなったが、脱水加工を行った竹簡は文字が少しぼやけて見えたため、他の竹簡に脱水加工を行うことは中断した。博物館としては、現在の保存処置のままでも、人の目で見る限り、竹簡は出土当時からあまり変化がないと認識している。竹簡の保存のためには、一定の環境を保ち、光などを当てないことが大切であるから、特別な展覧会などがなければ、基本的には公開しないことにしている。現在も本博物館は北京の胡氏と連絡を取っており、善い保存の方法があるかどうかを検討している。戦国楚簡が出土した湖北省とも連絡を取っているが、湖北省側は地域差があるということを理由に、我々に協力的ではない。このため、我々はやはり北京を頼りにしている。日本の先進的な技術にも関心を持っており、今後の共同研究にも期待している。

王氏の話に出てきた竹簡の脱水処理については、出土した竹簡の整理に当たった胡継高氏の論文「銀雀山和馬王堆出土竹簡脱水試験報告―兼論醇―★[酉+迷]連浸法原理」(『文物』一九七九年第四期)に詳しく論じられている。この論文によれば、様々な方法と薬品を用いた試験の結果、銀雀山漢墓竹簡には、アルコール―エーテル―樹脂法による脱水処理が行われた。その際に重視されたのは、脱水処理後の竹簡が裂けて変形することが無く、文字がはっきりと見え、また色つやや質感も問題がないことであった。ほぼ同じ時期に出土した馬王堆漢墓の竹簡は比較的保存状態がよかった(含水量は約三〇%)が、銀雀山漢墓竹簡は出土時点で既にかなり傷んでおり(平均含水量は七六.八五%)、同じ脱水処理法では対応できなかったとのことである。王氏の話では、脱水加工を行った竹簡の文字は少しぼやけて見えたとのことだが、胡氏の論文にはそうしたことについては述べられていない。

写真D 王之厚氏との面談

写真D 王之厚氏との面談

面談の最後に、今後残簡の写真を公開する予定があるかどうかを王氏に尋ねたところ、残簡を含めて、竹簡の写真は北京ですべて撮影済みである、既に出版した『銀雀山漢墓竹簡』(銀雀山漢墓竹簡整理小組編、文物出版社、一九八五年)に収められた『孫子兵法』『孫★[ピン]兵法』に続いて、他の文献も出版する予定で、整理中である、との回答があった。

但し、研究の進展と公開の準備とに関する具体的な説明は無く、実現はあまり期待できないとの印象を受けた。

文化大革命中に出土した銀雀山漢墓竹簡は、乱暴な発掘によって出土の際に激しく傷んだ上に、保存・管理をめぐって様々な問題に直面し、更に損傷が加わったようである。特に小さな断片となってしまった残簡については、現在は研究がほとんど不可能な状態ではないかと危惧される。なお、銀雀山漢墓竹簡の出土状況やその後の経緯については、『孫子兵法発掘物語』(岳南著、加藤優子訳、浅野裕一解説、岩波書店、二〇〇六年)が参考になる。

王氏との面談の後、我々は一旦博物館を出て昼食をとり、再び博物館に戻って館内の展示を見た。その時初めて気付いたのだが、館内に銀雀山漢墓竹簡に関する展示は一切無かった。調査に参加した福田一也氏が、一九九六年八月に山東省博物館を訪れた際には、数十本の竹簡の展示(おそらくレプリカ)があったとのことである。現在展示を行っていない理由については分からない。

戦国楚簡研究会が二〇〇五年に行った湖北省荊門・荊州学術調査旅行の帰途立ち寄った上海博物館書法館でも、以前はあった戦国楚簡のパネルの展示がなくなり、収蔵されている戦国楚簡に関する展示が一切見あたらないということがあった(「湖北省荊門・荊州学術調査報告」〔『中国研究集刊』第三八号所収、二〇〇五年〕参照)。貴重な資料を保管するために現物そのものの公開をひかえるのは当然であろうが、関連する展示すらまったくないのでは、研究に資する情報が得られないだけでなく、竹簡に対する一般の理解も広まらない。出土した竹簡を収蔵する博物館は、積極的な展示を行ってほしいものである。

(竹田健二)

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