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武氏墓群石刻博物館

中国山東省学術調査報告 INDEX

中国研究集刊 麗号(総四十八号) 平成二十一年六月 一七二 ~ 一八九頁

四、武氏墓群石刻博物館

武氏墓群石刻博物館は、曲阜から専用バスで約二時間、嘉祥県の東南約十五キロの武氏祠旧跡に位置する。博物館の正門を入って正面には武氏祠画像石を中心とする武氏祠石刻の陳列館があり、右側には新出土の画像石を中心とする嘉祥新出土石刻の陳列館が増設されている。

武氏は殷王武丁の後裔とされ、東漢期には任城(嘉祥県)の豪族として知られた。武氏祠はこの武氏一族の墓前に建てられた祠堂である。武氏石闕銘や武氏関係の碑文などにより、その年代は後漢の桓帝期の建和元年(一四七)から霊帝の建寧元年(一六八)頃と推定されている。北宋の欧陽脩『集古録』、趙明誠『金石録』、南宋の洪★[カツ]『隷釈』『隷続』など、宋代の文献には武氏祠石刻に関する記録が見えるが、その後、河水の氾濫によって埋没し、清の乾隆五十一年(一七八六)の黄易による発掘を契機として、広く内外に知られるに至った。正面展示室には現在、石闕一対・石獅一対・石碑六種(漢碑二種・清碑四種)・画像四十四石が展示されている。一方、嘉祥新出土石刻の陳列館には、解放後に嘉祥県を中心とする宋山・五老★[ワ]・紙坊鎮・徐村・狼山屯・南武山・斉山などの地域から出土した百余りの画像石のうち、山東省博物館収蔵分を除くおよそ四十余りが展示されている。

武氏祠石刻については、容庚『漢武梁祠画象録』(一九三六年、北京)をはじめとして数多くの図録や論著が備わる。近年のものでは、朱錫禄編著『武氏祠漢画像石』(山東美術出版社、一九八六年)が、内外に流出した石刻も網羅し、武氏祠石刻の全容をうかがう上で有益である。また嘉祥新出土石刻についても、嘉祥県武氏祠文管所「山東嘉祥宋山発現漢画像石」(『文物』一九七九年第九期)、済寧地区文物組嘉祥県文管所「山東嘉祥宋山一九八〇年出土的漢画像石」(『文物』一九八二年第五期)、嘉祥県文管所朱錫禄「嘉祥五老★[ワ、さんずい+圭]発現一批漢画像石」(同上)などに出土報告があり、朱錫禄編著『嘉祥漢画像石』(山東美術出版社、一九九二年)には「嘉祥漢画像石概論」とともに一六〇石におよぶ[図版][図版説明]が収録されている。

このように武氏墓群石刻博物館の収蔵品の概要については、すでに詳細な紹介がなされており今さら贅言を要しないことから、本稿では当館において過眼した石刻のうち、思想史研究の面で注目される「孔子見老子」画像石と新出土の文字資料である「武仲興道従達」刻石とを中心に報告したい。

「孔子見老子」画像石

武氏墓群石刻博物館に収蔵された数多くの画像石の中で、とくに我々の注目を集めたのは嘉祥新出石刻の陳列館に展示されていた二種の「孔子見老子」画像石であった。上述した『嘉祥漢画像石』によって確認すると、「図83斉山画像第3石」第一層および「図126紙坊鎮敬老院画像第1石」第二層に該当することが知られる。

以下にそれぞれの[図版]および[図版説明]を引用する。

図83 斉山画像第3石 第一層(部分)

図83 斉山画像第3石 第一層(部分)

第一層、刻孔子見老子図。老子面向右、手★[てへん+主]一拐棍、孔子面向左、大袖筒中伸出兩只鳥頭。孔子和老子之間有一児童、右手推一小独輪、左手抬起、面仰起向孔子、此児童当為項★[タク]。孔子背後為顔回、双手抬起于胸前。此三人之背後上方有題榜曰、“老子也”“孔子也”“顔回”。老子身後有子弟七人。孔子身後有子弟共二十人、其中子路頭戴雄鶏冠、腰懸小野猪、双袖上将至臂、顕出一副勇武有力的様子、頭右方一榜曰“子路”。

 

 

図126 紙坊鎮敬老院画像第1石 第二層

図126 紙坊鎮敬老院画像第1石 第二層

第二層、刻孔子見老子図。孔子和老子均頭戴進賢冠、身着長袍、★[てへん+主]一彎曲的拐杖相対頷首施礼。背後分別刻隷書題榜“孔子”“老子”。孔子和老子之間、一児童側身面向孔子立、似在説話、這人応為項★[タク]。

これらはいずれも『史記』孔子世家などが記す孔子と老子との会見の場面、いわゆる孔子問礼図とされるが、注意を要するのは、両者の間に一人の童子が立ち、孔子の方を向いて何か話をしている様子が画かれている点である。[図版説明]によれば、この童子は項★[タク]とされ、図83の項★[タク]は車輪のついた玩具のようなものを押している。「孔子見老子」画像は他の画像石にも散見されるが、はたしてそれらにも項★[タク]なる童子が登場しているのであろうか。

 

この点について調査するために、先に掲げた図83・図126を含む管見の及んだ武氏祠・嘉祥出土画像石図録中の「孔子見老子」画像石をリストアップすると、[別表]に掲げた十三例が確認される。

[別表]武氏祠・嘉祥出土画像石にみえる「孔子見老子」 画像一覧

No. 著録 編号 「孔子見老子」画像 車輪
(1) 図六九 其他第八石 単輪
(2) 図11 蔡氏園画像第5石 第一層 単輪
(3) 図32 呂村画像第1石 第一層 両輪
(4) 図36 洪家廟画像石 第一層 両輪
(5) 図47 宋山画像第5石 第二層 単輪
(6) 図49 宋山画像第7石 第三層 単輪
(7) 図51 宋山第二批画像第1石 第二層 単輪
(8) 図83 斉山画像第3石 第一層 単輪
(9) 図91 五老★[ワ、さんずい+圭]画像第7石 第三層 ナシ
(10) 図93 五老★[ワ、さんずい+圭]画像第9石 第三層 ナシ
(11) 図126 紙坊鎮敬老院画像第1石 第二層 ナシ
(12) 図129 紙坊鎮敬老院画像第4石 第三層 ナシ
(13) 図24 孔子見老子画像石 第一層 単輪

著録A 朱錫禄編著『武氏祠漢画像石』(山東美術出版社、一九八六年)
著録B 朱錫禄編著『嘉祥漢画像石』(山東美術出版社、一九九二年)
著録C 魯文生主編『山東省博物館蔵珍・石刻巻』(山東文化音像出版社、二〇〇四年)
(なおCの図30にも「孔子見老子画像石」が掲載されているが、これは(4)に掲げたBの図36と同一である)

ここに挙げた「孔子見老子」画像石はすべて、孔子と老子との間に童子が立ち、孔子の方を向いて何か話をしているような共通の構図をとる。さらに(1)~(8)(13)は童子が片方の手で車輪のついた玩具のようなものをもち、(1)(3)~(8)(13)はもう一方の手を挙げて孔子に何かを指示している。童子がもつ車の車輪は(1)(2)(5)~(8)(13)は単輪であるが、(3)(4)では明らかに両輪に画かれていることから、前者は二輪車を側面形として画いたものと理解してよいであろう。

これらの解説においても、孔子と老子との間に立つ童子は項★[タク]であるとされるが、項★[タク]と孔子および老子との関係について言及したものは見られないようである。それでは、老子・孔子・項★[タク]の三者はどのような関係にあり、項★[タク]と孔子との間にはいかなる問答が交わされていたのであろうか。

伝存文献中に見える項★[タク]の関係資料は、銭穆「項★[タク]攷」(『先秦諸子繋年』巻一、「二六 孔鯉顔回卒年攷」附)にほぼ網羅されている。それによれば項★[タク]は項託とも表記され、伝存文献では『戦国策』巻七・秦策五にみえる「甘羅曰、夫項★[タク]生七歳而為孔子師」との記述が最も古い。ほぼ同じ記述は『史記』巻七十一・甘羅伝、『淮南子』巻十九・修務訓、『新序』巻五・雑事第五、『論衡』巻二十六・実知篇にもみえ、七歳にして孔子の師となった項★[タク]の伝承が漢代に存在したことが知られる。ただし、これらの資料からは項★[タク]と老子との関係はみえてこない。

そこで注目されるのが、「項★[タク]攷」が引用する「★[ケイ]康高士傳乃云、大項★[タク]與孔子倶學於老子」との記述である。★[ケイ]康『高士伝』は佚書であり、この記述が何に引用されていたかについて銭穆は記していないが、近年、金文京氏によって『玉燭宝典』所引の★[ケイ]康『高士伝』佚文に、先の一条とともに「孔子見老子」画像の意味を知る上でさらに重要な記述が認められることが指摘された(金文京「孔子の伝説―「孔子項託相問書」考―」〈『説話論集 第十六集』清文堂出版、二〇〇七年〉)。『玉燭宝典』は六朝末に杜台卿が著した歳時記であり、中国では亡んで我が国に伝存した逸存書の一つとして知られる。画像石に対応する★[ケイ]康『高士伝』の逸文は『玉燭宝典』四月孟夏第四に以下のごとく見出される。

★[ケイ]康高士傳乃言、大項★[タク]與孔子倶學於老子。俄而大項爲童子推蒲車而戯。孔子候之、偶而不識。問大項曰、居何在。曰萬流屋是。到家而知、向是項子也。友之與之談。

★[ケイ]康高士伝は乃ち言う、大項★[タク] 孔子と倶に老子に学ぶ。俄にして大項 童子と為りて蒲車を推して戯る。孔子之を候ぬるに、偶うも識らず。大項に問いて曰く「居は何くに在り」と。曰く「万流の屋是れなり」と。家に到りて知る、向かえるは是れ項子なるを。之を友とし之と談れり。

この記述は、老子と孔子との間で車を押す童子の項★[タク]を描いた「孔子見老子」画像石とよく一致し、その意味を知る上で貴重な手がかりを提供する。しかしなお疑問とすべきは、「孔子見老子」画像石は、その多くが老子に対面して双手拝礼する孔子を描いた、いわゆる問礼図の形式をとることからもうかがわれるように、まさに老子に教えを乞わんとする孔子の姿を描いたものであり、『高士伝』逸文に記されるような、項★[タク]と孔子とがともに老子に学んだ後の場面とはいささか状況を異にする点である。画像資料と文献資料との接合については、慎重な態度が必要であり、いたずらに想像をたくましくすることは慎まなければならないが、あるいは問礼のために老子を訪ねた孔子に対して、老子の高弟として仲介役を務める童子項★[タク]の伝承が存在していた可能性も考慮されるのではないだろうか。

いずれにしてもこれらの文献資料との比較作業を通して、「孔子見老子」画像石には、孔子問礼という主題とともに今日では失われた孔子項★[タク]問答という主題が組み込まれていたことが明らかとなる。こうした点にも、文献資料の空隙を埋め得る画像資料の独自の価値を認めることができよう。

「武仲興道従達」刻石

武氏墓群石刻博物館の収蔵品は、言うまでもなく画像石が中心的位置を占めるが、文字資料の面でも武斑碑・武氏石闕銘・武氏祠画像石題記など、貴重な石刻が含まれている。以下に紹介する「武仲興道従達」刻石は、一九九二年に発見された新出の文字資料である。はじめに曹建国「嘉祥武氏家族発現新成員―嘉祥武氏墓群石刻“武仲興道従達”刻石初探」(『中国漢画学会第九届年会論文集(上)』中国社会出版社、二〇〇四年)にもとづき、出土状況と刻石の概要をまとめておく。

一九九二年春、嘉祥県文物局は武氏祠東南の二基の漢墓を調査し、二号墓の前室から「武仲興道従達」刻石を発見した。二号墓は、墓室の外壁が東西八・九五メートル、南北四・九五~五・四〇メートル、墓門・前室・中室・後室・耳室・回廊の六部分から構成される。墓室はすでに破壊され、盗掘により副葬品も失われていた。「武仲興道従達」刻石は長方形の石柱からなり、高さ九〇センチ、上半部は幅二二センチ、厚二〇センチ、下半部はやや粗雑な作りで、幅・厚各二四センチ。刻字は石柱の上半部に位置し、刻字に用いられた鑿(のみ)は平鑿、四四×七センチの長方形の平面に「武仲興道従達」の六字が刻されている。一方から刀を通した一刀偏入の刻法による不規則な隷書で、後漢後期の風格を示す。

石柱の形態によれば、下半部の粗削りの部分は地下に埋められ、上半部の刻鑿の比較的細かな部分が地上に露出していたと見なされる。「武仲興道従達」の「武仲興」は人名、「道」は墓道、「従達」はこの場所から(武仲興の墓道に)達するという意味である。したがって「武仲興道従達」刻石は、もともと二号墓中にあったものではなく、武仲興墓の墓道前方の地面に立てられていた標記石であり、それが二号墓中から発見されたのは、盗掘者などによって墓室中に投棄されたためと推測される。

これまでに発見された武氏石闕銘と武氏碑文から知られる武氏の家族成員は、四代十一人にのぼるが、これらの資料には「武仲興」の名は見いだされない。ここで注目されるのは、「武仲興」が、建和元年(一四七)に武氏石闕を建立した武氏四兄弟(始公・梁・景興・開明)の一人、武景興と同じ「興」字を名にもつ点である。当時は命名の際に長輩の名字を避ける避諱の慣習があり、それを踏まえれば「武仲興」は武景興と同世代の人物と見なすことができる。したがって、武氏四兄弟の別名でないとすれば、「武仲興」はその従兄弟(いとこ)であったと考えられる。

「武仲興道従達」刻石

「武仲興道従達」刻石

以上の曹氏の検討によって、「武仲興道従達」刻石は、武氏祠画像石および関連する諸石刻と同様、後漢後期の資料であることが裏付けられる。曹氏が指摘するように本刻石の最大の意義は「武仲興」というそれまで知られていなかった武氏新成員の存在を明らかにした点にあるが、同時に漢代石刻書法という面においても独自の価値を認めることができる。以下ではそうした観点から、「武仲興道従達」刻石がもつ書法上の特色について若干の分析を加えてみたい(右図版参照)。

冒頭の「武仲」の二字は、あらかじめ引かれた左右の界線の中におさめるべく、ややかたく謹直に刻される。次の「興道」の二字になると、懐を広げた大らかな調子に変わり、「従」字では一転して小ぶりにおさえたものの、末尾の「達」字は界線内におさまらず、最後は「羊」から「★[シンニョウ]」へゆったりと裾を広げつつ全体をまとめている。このように「武仲興道従達」刻石には、刻者の息遣いをそのままに伝える無造作な率意性が認められ、粗雑である反面、即興的で簡素な風趣が感じられる。

当時の石刻には著名な漢碑が多く、山東省に限っても乙瑛碑・礼器碑・孔宙碑など、いずれも隷書の古典としてなじみ深い。これらが言わばよそ行きの晴(はれ)の書風であるのに対し、日常的な褻(け)の書風を示す石刻として、墓室の内外に文字を刻した画像石題記や、棺の外囲いの石組み(黄腸石)に文字を刻した黄腸石題字などが知られている。これらの題記や題字は、墓葬にかかわる石刻という点で共通性をもつが、「武仲興道従達」刻石のような墓道標記の例は、これまでほとんど報告されていなかった。

曹氏は先の論文の中で、一九八一年の文物調査の際にも、山東嘉祥県満★[石+同]郷★[希+オオザト]荘村にある漢墓の墓道の前上方において、「武仲興道従達」刻石と同様の風格をもつ「五子畢由此東行」の刻字石柱が発見されたことを紹介している。今後、こうした出土例が増加すれば、漢代石刻の一類として、墓道標記にも注目していく必要があろう。

(福田哲之)

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