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銀雀山漢墓竹簡

(1)出土状況と概要

1972年、山東省臨沂県の銀雀山から前漢初期の墓が発見され、その副葬品の中に大量の竹簡が含まれていた。これを「銀雀山漢墓竹簡」(略称「銀雀山漢簡」)と呼ぶ。銀雀山漢簡は民間人によって発見され、手荒く発掘・搬出されたため、竹簡の損傷が激しく、多くが断裂した。その後の整理・解読の結果、竹簡の総数は約7500枚、そのうち文字が確認できる竹簡は約5000枚であることがわかった。字体は隷書に属し、前漢の文帝・景帝の頃から武帝初期に至るまでに書写されたものと推定されている。その内容は、主に『孫子兵法』『孫臏兵法』『尉繚子』『六韜』『守法守令等十三篇』などの古代兵書であり、また『晏子』『管子』や、陰陽雑占などの佚書も含まれていた。兵書を多く所有していたことから、墓主は軍事家であったと推定されている。

銀雀山漢簡の中でとりわけ注目を集めたのは、『孫子兵法』と『孫臏兵法』である。『漢書』芸文志の兵権謀家類には、「呉孫子兵法」と「斉孫子兵法」の二種の「孫子兵法」が記録されているが、現存するのは『孫子』十三篇のみであり、その全容や二種の「孫子兵法」の関係性については謎に包まれていた。

ところが、銀雀山漢簡『孫子兵法』『孫臏兵法』の発見によって、その状況は一変する。銀雀山漢簡『孫子兵法』は、現行本『孫子』十三篇とほぼ対応する内容を含む兵書であり、一方、銀雀山漢簡『孫臏兵法』は斉の孫臏に関わる兵書であることが明らかになったのである。孫臏については、孫武の百年後の末裔とされているが、伝記がわずかに残るだけで、その詳細は不明であった。銀雀山漢簡『孫臏兵法』の発見は、『孫子』との関係と、孫臏の兵法の実態を知る上で有力な手がかりを提供した。

銀雀山漢簡『孫臏兵法』には、「孫子」すなわち孫臏と、斉の威王や斉の将軍田忌との問答が記されており、その内容は、孫武の兵法の特質を引き継ぎつつ、戦国時代という時代を反映した兵法が展開されている。また、『孫臏兵法』陳忌問塁篇には、「明之呉越、言之於斉。曰智孫氏之道者、必合於天地。孫氏者、……(之を呉越に明らかにし、之を斉に言う。曰く、孫氏の道を智(し)る者は、必ず天地に合す。孫氏なる者は、……(以下、竹簡が欠損))」という記述があり、ここで言う「孫氏の道」とは、孫武以来の兵法が「孫氏」の家学として継承されてきたことを示すものである。
このように、銀雀山漢簡『孫子兵法』『孫臏兵法』の発見は、現行本『孫子』十三篇の成立事情と『孫臏兵法』の実態を解明する大きな要因となった。ただし、銀雀山漢簡の公開状況については、複雑な経緯をたどる。

(2)公開状況

銀雀山漢簡は、まず、1975年に『孫子兵法』『孫臏兵法』(銀雀山漢墓竹簡整理小組編、文物出版社)として刊行され、釈文と竹簡の写真図版が公開された。その後、修訂・再編を経て、1985年に『銀雀山漢墓竹簡(壹)』(銀雀山漢墓竹簡整理小組編、文物出版社)が刊行された。この第一輯には、『孫子兵法』『孫臏兵法』『尉繚子』『六韜』『守法守令等十三篇』『晏子』の釈文と写真図版が収録されている。

本書は三分冊によって公開されると予告されていたため、第一輯に収録されなかった文献についても引き続き公開が進むと考えられていた。しかし、第一輯の刊行以降、公開が停滞することとなる。

一方、銀雀山漢墓竹簡整理小組の一員である呉九龍氏は、1985年に『銀雀山漢簡釈文』(文物出版社)を刊行し、全竹簡の釈文を掲載した。ただし、竹簡の写真図版は収録されておらず、発掘時につけられた番号順に竹簡が並んでいるという未整理の状態での公開であった。
そして2010年、ようやく『銀雀山漢墓竹簡(貳)』が刊行された。第二輯は「佚書叢残」として、「論政論兵之類」(50篇)・「陰陽・時令・占候之類」(12篇)・「其他」(13篇)の三部で構成されている。

「論政論兵之類」のうち、『十陣』『十問』『略甲』『客主人分』『善者』『五名五共』〔『兵失』〕『将義』〔『将徳』〕『将敗』〔『将失』〕〔『雄牝城』〕〔『五度九奪』〕〔『積疏』〕『奇正』の15篇については、1975年版『孫臏兵法』においてすでに公開済みである(〔 〕内の文献名は、整理小組によって名付けられた仮称)。1975年版『孫臏兵法』では上記の文献は「『孫臏兵法』下篇」とされていたが、その後、これらの文献には「孫子」の名称が見えないことや、『孫臏兵法』の一部であると断定できる根拠が不足しているなどの理由から、『孫臏兵法』とは分けられた。1975年版と第二輯とを比較すると、竹簡の配列や綴合が修正・変更されている箇所が少なくない。

また、「論政論兵之類」のうち、はじめに配列されている12篇は、「篇題木牘」(未公開)に篇題が見える文献であるとされる。「論政論兵之類」には、失政・失敗を箇条書き風に列挙する文献が多く含まれている。例えば、将軍の素質上の欠点について述べる『将敗』や、将軍の失敗について説く『将失』などは、「一曰、二曰、三曰、……」という形式で書かれており、これらは一種のマニュアルのようなものではないかと推測される。

なお、最終巻となる第三輯には「篇題木牘」、「散簡」(篇題が不詳の残簡)、「元光元年暦譜」が収録される予定である。

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