上博楚簡

◆資料の概要

  1. 上博楚簡一九九四年、上海博物館が香港の古玩市場で購入した戦国時代の楚竹簡。全千二百余簡、三万五千字。
  2. 簡文中に、楚国に関する史実記載があり、また簡文の字体は楚国文字。さらに、「戦国晩期」と推測される賦残簡があることなどから、楚国遷郢以前の貴族墓中の随葬品。
  3. 儒家類を中心に、道家、兵家、陰陽家などの文献、約百種。『周易』『恆先』『孔子詩論』『詩楽』『緇衣』『子羔』『孔子閑居』『彭祖』『曾子』『武王踐阼』『賦』『子路』『曹沫之陳』『夫子答史籀問』『四帝二王』『曾子立孝』『顔淵』『仲弓』など。この内、篇題を伴うものが約二十篇。
  4. 現在まで、『上海博物館蔵戦国楚竹書(一)』(二〇〇一年十一月)、同(二)(二〇〇二年十二月)、同(三)(二〇〇四年三月)、同(四)(二〇〇四年十二月)、同(五)(二〇〇五年十二月)、同(六)(二〇〇七年七月)、同(七)(二〇〇八年十二月)が刊行された。収録状況は次の通り。
    (一)『孔子詩論』『緇衣』『性情論』
    (二)『民之父母』『子羔』『魯邦大旱』『従政』『昔者君老』『容成氏』
    (三)『周易』『仲弓』『恒先』『彭祖』
    (四)『采風曲目』『逸詩』『昭王毀室 昭王與★(龍+共)之★(月+隼 ・注1)』
    『柬大王泊旱』『内礼』『相邦之道』『曹沫之陳』
    (五)『競建内之』『鮑叔牙與隰朋之諫』『季庚子問於孔子』『姑成家父』『君子爲禮』
    『弟子問』『三徳』『鬼神之明 融師有成氏』
    (六)『競公瘧』『孔子見季桓子』『荘王既成 申公臣霊王』『平王問鄭寿』
    『平王与王子木』『慎子曰恭倹』『用曰』『天子建州』
    (七)『武王践阼』『鄭子家喪』『君人者何必安哉』『凡物流形』『呉命』

◆参考 上博楚簡の年代測定

上博楚簡は、盗掘されて香港の骨董市場に流出したものであるため、出土時期や出土地などは一切明らかにされていない。『上海博物館蔵戦国楚竹書(一)』の馬承源「前言:戦国楚竹書的発現保護和整理」は、出土地について、湖北省からの出土であるという話が伝わっており、流出した時期が郭店一号楚墓の盗掘時期と接近していることから、郭店墓地出土の可能性も考慮されるが、確証はないという。

また、竹簡の年代については、「上海博物館竹簡様品的測量証明」と中国科学院上海原子核研究所の分析によって戦国後期という測定結果が出されており、竹簡の内容や字体の検討、郭店楚簡との比較などを総合して、楚が郢から都を遷す(前二七八)以前の貴族の墓に副葬されていたものであろうと推定している。

なお、「馬承源先生談上海簡」(『上博館蔵戦国楚竹書研究』所収)には、二二五七±六五年前という中国科学院上海原子核研究所の測定値が紹介されている。一九五〇年を定点とする国際基準にしたがえば、前三〇八±六五年、すなわち前三七三年から前二四三年となり、下限は秦の将軍白起が郢を占領した前二七八年に設定されることから、書写年代は前三七三年から前二七八年の間と推定される。すなわち、上海博物館蔵戦国楚竹書と郭店楚簡とは、戦国時代の楚墓に副葬されたほぼ同時期の資料と見なされる。

◆第一分冊の内訳

  1. 『孔子詩論』
    詩の次序は、訟(頌)・大夏・小夏(雅)・邦風(国風)で、今本『詩経』とは異なる。また、今本『詩経』小序中の「刺」「美」の内容が見られない。
  2. 『緇衣』
    基本的に郭店楚簡『緇衣』、現行本『礼記』緇衣篇と重複する文献であり、対比することが可能である。
  3. 『性情論』
    郭店楚簡『性自命出』と基本的に同内容。戦国時代の儒家が古くから『中庸』に類似した本性論を展開していたことがわかる。

◆第二分冊の内訳

  1. 『民之父母』
    基本的に『礼記』孔子間居、『孔子家語』論礼篇と重複する文献であり、対比することが可能である。
  2. 『子羔』
    堯と舜の禅譲に関する前半部と、夏・殷・周それぞれの始祖である禹・契・后稷の聖誕神話に関する後半部とに大別される。
  3. 『魯邦大旱』
    前480年に魯を襲った大旱魃に際しての、哀公と孔子及び孔子と子貢との問答が記載されており、孔子・子貢の「天」の思想を窺うことができる。
  4. 『従政』
    儒家集団自身にとって必要とされた「従政」のあり方を説く。従政者は、王・君主をサポートする立場であり、「為政」と「従政」との相違についても重要な示唆を与える。
  5. 『昔者君老』
    君子の聞き書きの体裁。父である君主が老衰し、死期が迫っている時期における太子朝見の作法を示す。「孝」に関する文献。
  6. 『容成氏』
    伝世文献には見られない古代聖王の系譜や、禅譲、君主の治世、殷周革命の経緯について記されている。

◆第三分冊の内訳

  1. 『周易』
    簡長四四cm、三道編線(縄)、毎簡約四四字、全五八簡、三十五卦分、全千八百字。黒・紅など六種の記号あり。最古の『周易』テキスト。
  2. 『仲弓』
    全二十八簡。孔子が弟子の仲弓の質問に答える語録の形式。孔子の政治見解を示す貴重な資料。他の伝世文献には見えない。仲弓は前五二二~?、姓名は冉雍、仲弓はその字。孔門十哲の一人で、徳行にすぐれていたとされる。
  3. 『恒先』
    全十三簡、残欠なし。道家の虚静の理論を説き、宇宙創生・形名関係などを論述。第三簡背面に「恆先」の篇名あり。簡長三九.五㎝、三道編線、全十三簡、四九七字、書体は『周易』と同様。同一人の筆写。
  4. 『彭祖』
    全八簡。彭祖関係資料。彭祖は伝説上の仙人で帝尭の臣。殷の末までおよそ八百年生きたとされ、長寿の代表とされた。『論語』述而篇に「子曰、述而不作、信而好古、竊比於我老彭」とあり、この「老彭」を老子と彭祖とする解釈もある。また『抱朴子』に関係資料多数あり。

◆第四分冊の内訳

  1. 『采風曲目』
    内容は五声の中の宮・商・峉(徴)・羽の声名とそれに属する歌曲の篇目からなり、角音の声名は見られない。歌曲の篇目は、「碩人」が『詩経』衛風に見える以外は、伝存文献中に見いだされない。残簡には、裏の竹青面に別種の著作の内容を記したものがあり、本篇はもともと完全な形のものではなく、楚の宮廷における正式な保存文書ではなかった可能性も考慮される。このように本篇は把握し難い点が多いが、これまで不明であった楚国の楽官における曲目の一部を伝える貴重な資料である。
  2. 『逸詩』
    本篇は『詩経』に見えない「交交鳴於鳥」「多薪」の二篇からなる。篇名は見いだされず、「交交鳴於鳥」は詩章の首句により、「多薪」は詩章が不完全なため詩意によって篇名とした。「交交鳴於鳥」は「君子」品性や威厳などが譬喩をもちいて歌われており、「多薪」は兄弟二人の間の親密無比の関係が歌われている。『史記』孔子世家には、古く詩は三千余篇あったが、孔子が取捨選択して『詩経』三百五篇を刪定したとある。『逸詩』は『采風曲目』とともに『詩経』に採録されなかった古代詩を伝える貴重な資料である。
  3. 『昭王毀室 昭王與★(龍+共)之★(月+隼)』
    「昭王毀室」と「昭王與★(龍+共)之★(月+隼)」との二篇の文章からなる。篇題は見いだされず、それぞれの内容から名付けられた。「昭王毀室」の末尾と「昭王與★(龍+共)之★(月+隼)」の冒頭とは同じ第五簡にあり、二篇は墨節によって区分されている。「昭王毀室」は楚の昭王の新宮造営に際して合葬を願い出る「君子」の話、「昭王與★(龍+共)之★(月+隼)」は楚の昭王とその御者を務める★(龍+共)之★(月+隼)にかかわる話である。いずれも伝存文献には見いだされず、春秋時代の楚の逸事として貴重な意義を有している。
  4. 『柬大王泊旱』
    本篇の竹簡は出土した泥塊の中にあり、上海博物館の実験室において剥離・脱水が行われたため、非常に保存状態がよい。篇題は記されておらず、「柬大王泊旱」という現題は冒頭の句から取り、全文の中心主題でもある。「柬大王」は史書に見える戦国初期の楚の簡王(前四三一年~前四〇八年在位)で、内容は、柬大王の病疥と楚国の大旱にかかわる二つの逸事からなる。本篇は、戦国期の楚国の歴史や習俗について新たな知見を提供し、さらに軍事・官制・医学・気象・宗教といった多方面にわたる楚文化の探求においても重要な意義をもつ。
  5. 『内礼』
    第一簡の背面に篇題「内豊」が倒書されている。「豊」は「禮(礼)」の初文。「内礼」という語は、文献には未見であるが、『礼記』内則篇の篇名との関連が考慮される。本篇の内容は『大戴礼記』曾子立孝篇・曾子事父母篇、『礼記』曲礼上篇との間に関連が認められ、孝の思想の展開や『大戴礼記』の成立過程などを考察する上に重要な意義を有する。
  6. 『相邦之道』
    残存簡に篇題は見られず、末簡に記す孔子と子貢の問答から『相邦之道』と名付けた。残缺により不明な点が多いが、残存部から推測すると、魯の哀公が孔子に邦を相ける道や民の統治などについて質問し、両者の間で政治に関する問答が展開された後、宮中からもどった孔子が子貢に対して哀公を称えた内容であったと推測される。
  7. 『曹沫之陳』
    第一簡背面に篇題が記されている。魯の荘公と曹沫との問答からなり、前半は政治、後半は軍事に関する内容であるが、篇題は軍事を主としており、兵書の性格をもった文献と見なされる。曹沫については、斉魯の講和会議(前六八一年)の席上、短刀で斉の桓公を脅迫して奪われた領土を返還させた刺客としての曹沫(『史記』刺客列伝など)が広く知られるが、本篇はすぐれた軍事家としての曹沫を語る貴重な資料であり、古代中国の兵学研究において、重要な意義を有している。

◆第五分冊の内訳

  1. 『競建内之』
    日食時における斉の桓公と鮑叔牙・隰朋との対話を記述している。隰朋と鮑叔牙とに関する事は、史書に多く記載されているが、本篇の内容はそれらには見られないものである。
  2. 『鮑叔牙與隰朋之諫』
    鮑叔牙・隰朋の二大夫が斉の桓公に直諫する内容である。竹簡の形制は『競建内之』とほぼ同じであり、これら二篇を同一の篇とする研究者もいる。
  3. 『季庚子問於孔子』
    季康子と孔子とが、国の統治について問答するというものであり、孔子の政治論が窺える。
  4. 『姑成家父』
    春秋時代中期の晋国の三郤(郤錡・郤★(隹+隹+牛)・郤至)に関係する。その内容は、『左伝』・『国語』などの文献と相違があり、本篇の基本的立場は三郤に同情しているようである。
  5. 『君子爲禮』
    多くは孔子と弟子との間の問答に関するものである。文中に登場する人物は、孔子・顔淵・子羽・子貢・子産・舜・禹らである。前半部は孔子と顔淵との「礼」と「仁」の関係についての問答、後半部は子羽と子貢とが、孔子と子産のどちらが賢人であるかという内容の問答を行っている。また、第十六簡には「子治詩書」との記述が見られ、「六経」の成立にかかわる記事である可能性がある。『君子爲禮』と『弟子問』の一部とは連続する可能性があるが、竹簡の多くが欠損しているため、竹簡の形制から判断することは困難である。
  6. 『弟子問』
    孔子と弟子との応対問答に関わる内容である。孔子と宰我・顔淵、顔淵と子由、及び子羽と子貢との問答等を含み、その内容は多様である。また、附簡は、『論語』学而の「巧言令色、鮮矣仁」に相当すると見られ、注目に値する。
  7. 『三徳』
    『大戴礼記』四代と類似する一文があることから、整理者によって「三徳」と名づけられた。その内容は、「天」・「地」・「人(民)」に関するものである。本篇における「天」と「人」との関係は、典型的な天人相関であり、人為が「天」に感応し、「天」が人為に応じた禍福を降すという思想が見られる。また、人格神として上天・上帝が位置づけられている点は、注目すべき点である。
  8. 『鬼神之明 融師有成氏』
    篇題は無く、『鬼神之明』は整理者が内容に基づいて名付けたもの、『融師有成氏』は冒頭五字より取ったものである。第五簡の墨節によって、『鬼神之明』と『融師有成氏』とを分けている。『鬼神之明』は、『墨子』の佚文の可能性がある。『融師有成氏』は、上古の伝説上の人物の故事や夏・商の歴史に関わる内容を叙述している。

◆第六分冊の内訳

  1. 『競公瘧』
    原釈文担当者は濮茅左氏。全十三簡(全て残簡)で、篇題は第二簡背面に「競公瘧」とある。「競公」とは春秋時代の斉の景公のことであり、本篇は、景公が「瘧」にかかったことによって引き起こった朝廷内部の論争が記されている。本篇は、斉国の歴史・宗教・哲学・医学・治国の策略、及び『晏子春秋』の材料・成書年代など、多方面の研究に価値のある史料を提供している。
  2. 『孔子見季桓子』
    原釈文担当者は濮茅左氏。全二十七簡(全て残簡)で、元々篇題はなく、冒頭句より取る。本篇は、儒家の重要な佚文である。全文が対話形式で、孔子と季桓子との談話が記されている。
  3. 『荘王既成 申公臣霊王』
    原釈文担当者は陳佩芬氏。全九簡で、『荘王既成』と『申公臣霊王』の二篇からなる。『荘王既成』は、無射を製造した楚の荘王と重臣とが、楚の後の王(子孫)が覇者の地位を保つことができるかについて問答しているものである。『申公臣霊王』は、楚の王子囲(後の霊王)と陳公子皇(穿封戌)との間に起こった、捕虜(鄭の皇子、皇頡)をめぐる争いについて記されているものである。
  4. 『平王問鄭寿』
    原釈文担当者は陳佩芬氏。全七簡で、元々篇題はなく、内容に基づいて名付けられた。本篇は、楚の平王が国の「禍敗」について、鄭寿(おそらく、卜尹の観従)と問答しているものである。
  5. 『平王与王子木』
    原釈文担当者は陳佩芬氏。全五簡で、元々篇題はなく、冒頭の句に基づいて名付けられた。本篇は、楚の王子木(太子建)が楚の平王に命ぜられて城父に至った際のことが記されている。
  6. 『慎子曰恭倹』
    原釈文担当者は李朝遠氏。全六簡で、篇題は第三簡背面に「慎子曰恭倹」とある。本篇の内容は、現存する各種版本の『慎子』には見られず、さらに儒家の学説と関連するようであり、この「慎子」と伝世文献中の「慎子」(慎到)とは同一人物と見なせるかどうか、今後の研究が待たれる。
  7. 『用曰』
    原釈文担当者は張光裕氏。全二十簡で、元々篇題はなく、篇中に多く見られる「用曰」を篇名とした。「用曰」とは、「諺曰」「鄙諺曰」「古語曰」等に相当し、世の中の人々に対する訓戒、実際に役立つ言葉、及び伝世文献に見られるような諺が記されている。
  8. 『天子建州』
    原釈文担当者は曹錦炎氏。甲本と乙本とがあるが、内容は同じである。甲本は全十三簡、乙本は第十二簡・第十三簡が失われており、現存するのは十一簡である。儒家文献であり、主に「礼」制に関することが記されている。そこには『大戴礼記』『礼記』の中に類似する記載が見られ、先秦時期の礼学を研究するための貴重な資料を提供している。

◆第七分冊の内訳

  1. 『武王践阼』
    武王が師尚父(太公望)に「黄帝・顓頊・堯・舜の道」を問う内容が記された文献。『大戴礼記』武王践阼篇と多く重複する。第10簡と第11簡との間に脱簡がある。武王が尋ねる場面が2回繰り返されるため、もともとは別の2篇であった可能性も指摘されている。
  2. 『鄭子家喪』(甲本・乙本)
    鄭の子家の死を契機として、楚が鄭に侵攻し、それを救援に来た晋と両棠に戦うという内容が記されている。乙本第5簡は完簡とされるが、図版を参照すると、第5簡上端に欠損が確認でき、第5簡上端にもう1字分あった可能性がある。「楚王故事」の1つと考えられる。
  3. 『君人者何必安哉』(甲本・乙本)
    昭王と范乗との問答形式で記される。范乗が昭王に対し、伝統的礼楽の不備・妾妻制の不充実などの3つの問題点をあげて諫言する。「楚王故事」の一つと考えられる。
  4. 『凡物流形』(甲本・乙本)
    『楚辞』天問と同様の「有問無答」形式の部分と、「一」に言及した道家思想的な部分より構成される。宇宙生成論を備える文献として注目できる。乙本は残欠が酷く、残簡を綴合したものが多い。また、乙本は原釈文の「説明」において「二十一簡」と記載されているが、実際は22簡ある。『凡物流形』は、もともとは全く異なる2つの文献が、誤って1つに接合されたものとする指摘がある。(浅野裕一「上博楚簡『凡物流形』の全体構成」)
  5. 『呉命』
    魯の哀公13年、「黄池の会」周辺の出来事が記された佚書。呉王夫差が兵を率いて北上し、陳を手に入れようとしたが、晋がうまく立ち回りそれを防いだことが記された前半部と、呉王が臣下を周に派遣したことが記された後半部よりなる。『国語』呉語の佚篇と考えられる。原釈文の「説明」において、第9簡は完簡とされるが、続く各簡の解説では、第9簡の下部に残欠が指摘されている。また、簡長約52㎝とは、現存する竹簡の最長簡(第九簡51.1㎝)から、原釈文者が推測した完簡の長さを示している。
  • 注1……左旁「月」右旁「隼」
  • 注2……「氏」の下部に「丶」
  • 注3……左旁「告」右旁「攵」
  • 注4……左旁「申」右旁「戈」

◆第八分冊内訳

  1. 『子道餓』
    全6簡。篇題は第1簡のはじめの三字「子道餓」より取る。整理者は本篇について、魯の哀公六年(前489年)、孔子が63歳の時に、楚の昭王の招聘に応じて楚に向かった際、陳・蔡の大夫が孔子一行を包囲し、孔子一行は食を断たれて貧窮したが、孔子は講義をやめなかったという一件に関する文献であると述べる。これに対して、復旦吉大古文字専業研究生聯合読書会は、竹簡の再排列を行って釈読し、簡文の内容は孔子とは無関係であると述べる。そして、本篇の内容は、言遊(もしくは顔遊)という人物が魯の司寇が礼をもって待遇しなかったことを理由に魯を去り、宋衛の間に至った際に、子の一人が餓死し、門人がこのことを諫めたというものであるとする。
  2. 『顔淵問于孔子』
    全14簡。本篇は、孔子の弟子の顔淵が孔子に向かって、君子が国内の政治に従事する場合にはどのような道があるかについて問うた文献である。竹簡の乱れが多く、難読箇所も少なくないが、簡文中に『論語』などの伝世儒家系文献と類似する箇所が見られ、重要な儒家系文献の一つであると言える。
  3. 『成王既邦』
    全16簡。本篇は、周の成王と周公旦とが問答を行う様子が記されている。竹簡の残欠が激しく、排列や字体に関する問題もあるため、難読箇所が少なくないが、『書経』『詩経』などの伝世文献には見られない内容も記載されている。篇題は当初、「尚父周公之一」「尚父周公之二」と仮に名付けられていたが、後に整理者が冒頭の四字「成王既邦」を篇題とした。
  4. 『命』
    全11簡。本篇は、楚の令尹子春と葉公子高の子とによる対話形式の文献であり、伝世文献には見られない内容である。本篇では葉公子高はすでに死去しており、令尹子春は葉公子高の子に対して、亡き父の遺命や教誨を教えてほしいと願い出る。それに対して、葉公子高の子は、議論し合える仲間を側に置かない令尹子春に対して、「あなたは十三人の亡き父に相当する」と、皮肉を込めて訓戒を述べている。
  5. 『王居』
  6. 『志書乃言』
    『王居』は全7簡、『志書乃言』は全8簡。整理者は『王居』と『志書乃言』とを別文献と見なしているが、第八分冊公開後、復旦吉大古文字専業研究生連合読書会が両篇を合わせて再排列する案を提示した。また、同じく第八分冊所収の『命』の一部の竹簡は『王居』に属すると考えられている。本篇の登場人物は、楚王・彭徒・郘昌・観無畏・令尹子春であり、楚王に登用された大夫の発言が反逆罪に当たると彭徒が讒言するところから始まる。本篇は、楚王による人材の発掘・登用が主題となっている文献であると見られている。
  7. 『李頌』
    全3簡。竹簡の両面に文字が書写されているが、『李頌』の第2簡と第3簡は、同じ第八分冊所収の『蘭賦』の背面に書写されたものである。整理者は、本篇を「楚辞体」の作品と位置づけている。作品全体としては、春秋戦国時代の上層知識人が追求した高尚な品格の一種「君子」の心情を体現し、同時に作者は自身の忠節の気持ちを詠っている。整理者は、第2簡に見える「是故聖人兼此、和物以理人情。人因其情、則楽其事、遠其情」の句は、作品とは別の「講評」の語であり、詩を授けた者が書いたものである可能性を指摘している。
  8. 『蘭賦』
    全5簡。整理者は、本篇を「賦体」の作品と位置づけている。第4簡と第5簡の背面に書写されている文章は、同じ第八分冊所収の『李頌』の第3簡と第2簡に当たる。本篇は、「蘭」に興味を湧かせる内容であり、「蘭」の品徳に借りて作者の情感と志向を詠っている。戦国時代の賦体作品の諸問題を研究するのに重要な資料である。
  9. 『有皇将起』
    全6簡。整理者は、本篇を「楚辞体」の作品と位置づけている。作者は楚国の上層知識人で、貴族子弟の教育を職務とする人物であるとされる。詩の中では、教え子への心情や教誨が詠われている。
  10. 『鶹鷅』 リュウリツ(留+鳥・栗+留)
    全2簡。 整理者は、本篇を「楚辞体」の作品と位置づけている。「リュウリツ」とは梟のことであり、梟になぞらえて貪欲な人々を批判するという内容になっている。竹簡形制や字体、第一人称に「余」が使われている点などは、『有皇将起』と類似している。

◆第九分冊内訳

  1. 『成王為城濮之行』(甲本・乙本)
    甲本5簡、乙本4簡。本篇は、楚の成王が城濮の地を視察した際に、子文と子玉に軍事演習を行わせ、それをめぐって子文と伯嬴(蔿賈)が問答をするという内容である。子文の子玉に対する指導が適切であったと見なされ、子文は国を挙げて祝われるが、当時若年であった伯嬴は宴席に遅れて現れ、子文は伯嬴にその理由を問い、伯嬴はそれに答える。本篇は、甲本・乙本を合わせて排列する案がすでに提示されている。また、『左伝』僖公二十七年伝の記事と関連が深く、対比して読むことで全体像を把握できる。
  2. 『霊王遂申』
    全5簡。本篇は、楚の霊王が即位し、蔡国を滅亡させた後、申国の人々に対して蔡の器物を取りに行くように命じ、申成公はその子の虚に取りに行かせるという内容である。
  3. 『陳公治兵』
    全20簡。本篇は、楚の政局が安定してきた頃に、楚王が軍隊を視察して整えたという内容が記載されている。楚王は陳公に対して、執事人(職務を補佐する官吏)を助けて士卒を整えるよう要請し、陳公は楚王の命令に従って軍隊を整えたとされる。陳公は伝世文献には見られない人物であり、誰なのかが特定しがたい。また、前半部分は比較的整っている一方、後半部分は竹簡の残欠が多く、また排列にも問題があると見られ、難読箇所が少なくない。
  4. 『挙治王天下』(五篇)
    全35簡。五篇の文章が連続で書写されており、篇と篇との間は墨節よって分けられている。篇題は内容に基づいて名付けられた仮称であり、「挙治」は前の二篇の内容、「王天下」は後の三篇の冒頭に見える句を示している。五篇それぞれの名称も、内容に基づく仮称である。
    『古公見太公望』は、古公が自ら太公望が居住する呂に赴き、教えを請うという内容である。『文王訪之於尚父挙治』の中心人物は文王と尚父(すなわち太公望)で、討論の主題は「舉治」である。『堯王天下』は、堯が天下の王であった時、聖徳によって天下を治め、民衆は常に親和し、国家は長く光り輝いていたということを記載している。『舜王天下』は、舜が天下の王であった時、三苗は服しなかったが、舜は三苗の悪習を断つこともなく、これらの人々を排除することもなく、よく善政を行ったということを記載している。『禹王天下』は、禹王が天下の王であった時、堯舜の教えがすでに深く人心に入り込み、天下は心服していたということを記載している。
  5. 『邦人不称』
    全13簡。本篇は、楚の歴史書の佚文であり、一代老臣の伯貞について記載している。「伯貞」という名は伝世文献には見られないが、簡文の内容によると、葉公子高(沈諸梁)であると考えられる。本篇には、楚の昭王の夫人に関する記述があり、『列女伝』では、楚の昭王の夫人越姫は、重病の昭王の身代わりとなるために自害したとされるが、本篇では、昭王の死後、白公の禍の際もなお健在であり、葉公子高と激論をたたかわせている。本篇は、楚の昭王・恵王の時代の国難を研究する上で、新たな史実を提供している。
  6. 『史リュウ(艸+留)問於夫子』
    全12簡。本篇は、斉の吏の子である史リュウ(艸+留)が孔子に向かって、世襲の方法、国を治める際の「八」(八つの禁止事項)の内容、「教」と「治」の関係、「敬」や「強」という問題などについて教えを請うという内容である。簡文の最後には、孔子は史リュウに対して「善哉」と述べて賞賛している。本篇に見える孔子と史リュウの問答は、『論語』などの伝世文献には見られないものであり、重要な儒家系文献の一つであると考えられる。ただし、竹簡の残欠が激しく、難読箇所も少なくない。
  7. 『卜書』
    全10簡。本篇には、四人の古えの亀卜家の辞が記載されており、居住地や国事に関することが卜問の対象となっている。まず兆象・兆色・兆名を述べ、その後に占卜の結果(吉凶悔吝)を述べる。本篇は、今のところ発見された中で最も早期の卜書であり、早期の卜筮方法を研究するのに重要な資料を提供している。完簡である第1簡・第2簡・第7簡・第8簡は、表面の下部に順序を示す数字(編号)が小さく書かれている。また、整理者は、竹簡の背面に劃痕(ひっかき傷状の斜線)があることを指摘し、それに基づいて参考に排列されているため、排列には誤りがないと述べている。(ただし、背面の写真図版は収録されていない。)

上博楚簡形制一覧

※以下の書誌情報は、基本的に各文献の原釈文による。

No. 分冊 名称 枚数 簡長 編綫 簡端 完整簡 残簡 字数 篇題 備考
1 孔子詩論 29 55.5 三道 円端 1 28 1006 『子羔』『魯邦大旱』と同筆。第2簡~第7簡は留白簡。
2 緇衣 24 約54.3 三道 梯形 8 16 978 基本的に郭店楚簡『緇衣』、現行本『礼記』緇衣篇と重複。
3 性情論 45 約57 三道 平斉 7 38 1256 郭店楚簡『性自命出』と基本的に同内容。
4 民之父母 14 45.8 三道 平斉 1 13 397
5 子羔 14 残簡最長 三道 円端 0 14 395 第5簡背面「子羔」 『孔子詩論』『魯邦大旱』と同筆。
54.2
6 魯邦大旱 6 54.9/55.4 三道 円端 2 4 208 『孔子詩論』『子羔』と同筆。
7 従政(甲篇) 18 約42.6 三道 平斉 9 9 519 『従政(乙篇)』と同筆。
8 従政(乙篇) 6 42.6 三道 平斉 1 5 140 『従政(甲篇)』と同筆。
9 昔者君老 4 44.2 三道 平斉 3 1 158
10 容成氏 53 約44.5 三道 平斉 37 16 2062 第53簡背面「訟城氏」
11 周易 58 44 三道 平斉 44 14 1806 黒・赤など6種の符号が見られる。
12 仲弓 28 約47 三道 平斉 3 25 520 第16簡背面「中弓」 附簡1簡(24字)。
13 恒先 13 約39.4 三道 平斉 13 0 496 第3簡背面「亙先」
14 彭祖 25 約53 三道 平斉 3 5 291
15 采風曲目 6 残簡最長56.1 平斉 0 6 149
16 逸詩 6 残簡最長27 平斉 0 6 138 「交交鳴★(於+鳥)」(4簡)、「多薪」(2簡)
17 昭王毀室 10 約44 三道 平斉 6 4 196 第5簡の墨節で区分。
昭王與★(龍+共)之★(月+隼) 192
18 柬大王泊旱 23 約24 両道 平斉 23 0 601
19 内礼 10 44.2 三道 平斉 4 6 376 第1簡背面倒書「内豊」 附簡1簡(22字)。
20 相邦之道 4 残簡最長51.6 0 4 107
21 曹沫之陳 65 約47.5 三道 平斉 45 20 1784 第2簡背面「★(告+攵)蔑之★(申+戈)申」
22 競建内之 10 42.8~43.3 三道 平斉 7 3 347 第1簡背面「競建内之」 『鮑叔牙与隰朋之諫』と併せて一篇。
23 鮑叔牙與隰朋之諫 9 40.4~43.2 三道 平斉 7 2 340 第9簡「鮑叔牙與隰朋之諫」 『競建内之』と併せて一篇。『競建内之』と一部同筆の箇所がある。
24 季庚子問於孔子 23 38.6~39.0 三道 平斉 12 11 669
25 姑成家父 10 43.7~44.4 三道 平斉 6 4 466
26 君子爲禮 16 54.1~54.5 三道 平斉 2 14 342
27 弟子問 25 残簡最長45.2 三道 平斉 0 25 494
28 三徳 22 44.7~45.1 両道 平斉 15 8 898 一枚は香港中文大学中国文化研究所文物館所蔵。
1
29 鬼神之明 8 整簡最長52.1 三道 平斉 0 8 197 第1簡に留白。第2簡背面に補足の文がある。第5簡の墨節で区分。
融師有成氏 122
30 競公瘧 13 約55 三道 平斉 0 13 489 第2簡背面「競公瘧」
31 孔子見季桓子 27 約54.6 三道 平斉 0 27 554
32 荘王既成 9 33.1~33.8 両道 平斉 9 93 第1簡背面「荘王既成」 第4簡の墨釘によって区分。
申公臣霊王 107
33 平王問鄭寿 7 33~33.2 両道 平斉 7 173 第7簡は本篇に属さないと見られている。
34 平王与王子木 5 約33 両道 平斉 5 117
35 慎子曰恭倹 6 32 両道 平斉 1 5 128 第3簡背面「慎子曰恭倹」 契口の数が編綫の数より多い。編綫に字跡があり、廃品を再利用したものか、未詳。
36 用曰 20 約46 平斉 4 16 753
37 天子建州 甲13 約46 平斉 4 9 407 甲本・乙本の内容は同じ。それぞれが残欠した箇所を補い合えるため、全篇の内容は復元可能。甲本第13簡、乙本第3簡は完簡とされるが、実際には欠損がある。
乙11 41.7~43.9 7 4
38 武王践阼 15 41.6~43.7 三道 平斉 15 491
39 鄭子家喪 甲7 33.1~33.2 両道 平斉 7 235
34.0~47.5
乙7 1 6 214
40 君人者何必安哉 甲9 33.2~33.9 両道 平斉 4 5 241 甲本・乙本の内容は同じ。
33.5~33.7
乙9 9 237
41 凡物流形 甲30 33.6 両道 平斉 23 7 846 甲本第3簡背面「凡物流形」 甲本・乙本の内容は同じ。甲本の残欠部分の文字は、乙本によって復原できる。
乙21 40 3 18 601
42 呉命 9 約52 三道 平斉 1 8 375 第3簡背面「呉命」
43 子道餓 6 約44 三道 平斉 2 4 121
44 顔淵問于孔子 14 約46.2 三道 平斉 14 313
45 成王既邦 16 45.6~45.9 三道 平斉 2 319 第一簡の表面に墨節があり、その前後は同一篇ではないと見られる。
46 11 33.1~33.4 両道 平斉 11 274 第11簡背面「命」 第4簡・第5簡は、『王居』(含『志書乃言』)の一部として排列する案が提示されている。
47 王居 7 33.1~33.2 両道 平斉 4 3 152 第1簡背面「王居」
48 志書乃言 8 33.1~33.2 両道 平斉 6 2 169 『王居』とあわせて排列する案が提示されている。また、第8簡は『平王与王子木』第4簡の下に接続すると考えられている。
49 李頌 3 約53 三道 平斉 2 1 172 竹簡の両面に文字が書写され、『李頌』第2簡・第3簡は、『蘭賦』の背面に書写されたものである。
50 蘭賦 5 約53 三道 平斉 1 4 160 第4簡と第5簡の背面に書写されている文章は、『李頌』の第3簡と第2簡に当たる。
51 有皇将起 6 約42 三道 平斉 6 186
52 鶹鷅 2 最長簡39.1 三道? 平斉 2 45
53 成王為城濮之行 甲5 33.1~33.3 両道 平斉 甲2 甲3 209 甲本・乙本をあわせて排列する案が提示されている。また、乙本第3簡下段は字体が異なり、本篇に属さないと見られる。
乙4 乙1 乙3
54 霊王遂申 5 33.3 両道 平斉 5 0 167
55 陳公治兵 20 44 三道 平斉 9 11 519
56 挙治王天下(五篇) 35 46 三道 平斉 5 30 719 古公見太公望(1簡~第3簡)、文王訪之於尚父挙治(第4簡~第21簡墨節上段)、堯王天下(第21簡墨節下段~第25簡)、舜王天下(第26簡~第29簡墨節上段)禹王天下(第29簡墨節下段~第35簡)の五篇よりなる。
57 邦人不称 13 33 両道 平斉 9 4 358
58 史リュウ(艸+留)問於夫子 12 37 三道 平斉 12 236 字体が『孔子見季桓子』と同じか。
59 卜書 10 43.5 三道 平斉 4 6 256 完簡の表面末端には竹簡の順序を示す編号が書かれている。背面には劃痕(竹簡の背面に記されたひっかき傷状の斜線)があり、それらをもとに排列。

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