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香港中文大学文物館蔵簡牘

「香港中文大学文物館蔵簡牘」とは、香港中文大学文物館が数年かけて購入・収蔵した259枚の簡牘を指す。そのうち、戦国簡が10枚、西漢の『日書』簡が109枚、遣策が11枚、奴婢廩食粟出入簿簡牘が69枚、「河隄」簡が26枚、東漢「序寧」が14枚、東晋「松人」解除木牘が1枚。そのほか、残片8枚と、文字が書写されていない空白簡11枚がある。

2001年に『香港中文大学文物館蔵簡牘』(陳松長編著、香港中文大学文物館)が刊行され、簡牘の写真図版(カラー)と釈文・注釈が公開された。文字が判読しづらい簡牘については、カラー写真の横に赤外線カメラで撮影された写真も付されている。以下、本書に基づいてその内容を概説する。

甲:戦国楚簡

全10枚、すべて残簡であり、それぞれが接続するわけではない。最も長いものでも12字程度しか残っていないが、そのほとんどが文献類の楚簡である。『香港中文大学文物館蔵簡牘』において、この戦国楚簡は上博楚簡と関連が深く、うち2枚が「緇衣」と「周易」に属するものであると述べられている。その後、上博楚簡の公開が進み、『上海博物館蔵戦国楚竹書』(馬承源主編、上海古籍出版社、2001年11月~。2013年9月時点で第九分冊まで刊行)の各分冊において、この戦国楚簡のうち4枚は、上博楚簡『緇衣』・『周易』・『子羔』・『三徳』の一部であると見なされている。具体的には、第1簡と上博楚簡『緇衣』(第一分冊)、第2簡と上博楚簡『周易』(第三分冊)、第3簡と上博楚簡『子羔』(第二分冊)、第4簡と上博楚簡『三徳』(第五分冊)である。

また、近年発表された論文、李松儒「香港中文大学蔵三枚戦国簡的帰属」において、この戦国楚簡のうち第5簡・第6簡・第8簡は、上博楚簡『季庚子問於孔子』(第五分冊)に属するのではないかとの指摘がなされている(張徳芳主編『甘肅省第二届簡牘学国際学術研討会論文集』、上海世紀出版・上海古籍出版社、2012年12月、599~601頁)。

乙:漢代簡牘

1.日書

全109枚、簡牘の中で最も数量が多い。その内容は、睡虎地秦簡『日書』や随州孔家坡漢簡『日書』と対応するところが多い。『香港中文大学文物館蔵簡牘』においては、初歩的な比較を経て、帰行・陥日・取妻出女・禹須臾・稷辰・玄戈・吏篇・日夜表・干支表等の二十四の篇章に分けている。本簡には「孝恵三年」という紀年が見えるため、「孝恵三年」(前一九二年)の後に書写されたものであることがわかっている。本簡のうち一簡は、秦の始皇帝の諱「政」を避け、「正」の字をすべて「端」の字に改めている一方、簡文の中では高祖劉邦の諱を避けていないため、漢初の避諱の現象について考える際の資料にもなる。

2.遣策

全11枚。副葬品のリスト。

3.奴婢廩食粟出入簿簡牘

全69枚。本簡の中に「元鳳二年」(前七九年)という紀年が見えることから、前漢中期の簡牘であることがわかる。本簡は、「寿」「根」「貝」といった人物が召使に穀物を支給した状況や、召使が毎月粟をどれくらい食べたか等について詳細に記録している。また、大石・小石(容量の単位)の換算率が詳しく記録されており、大石と小石の関係を理解するための手がかりとなる。

4.河隄簡

全26枚。「河隄」の地理的位置については明らかではないが、堤防の広さや長さについて記載されている。また、「積」「畸」「實」といった専門の算術用語が見え、『九章算術』と対照して検討することができる。

5.序寧簡

全14枚、中には弓のように曲がった形状のものもある。紀年があり、後漢の章帝建初四年(七十九年)のものであることがわかっている。形制の面では二種類に分けられる。一つは、比較的小さい木片に書写され、字体は比較的小さくて謹直である。もう一つは、比較的長い木簡に書写され、字体は比較的大きくて奔放である。「序寧」の二字は伝世文献中に見えない語であり、さらに「皇母」「皇男皇婦」「皇子」「皇弟」といった語が見えることも特徴的である。

丙:晋代「松人」解除木牘

全1枚。東晋時代の「松人」の解除(魔除けをして災いを除く)の木牘であり、人物の絵が描かれ、その周りや裏面に解除文が記載されている。木牘の側面にも文字が記されている。後漢以後に流行した鎮墓文を理解するのに重要な資料を提供している。

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