2012年12月、東アジア文化交渉学会第五回大会開催(5月10日・11日、会場は香港城市大学)の案内があり、2月下旬に湯浅邦弘教授(大阪大学)・竹田健二教授(島根大学)・金城未来(当時大阪大学大学院博士後期課程院生、現在大阪大学助教)・草野友子(日本学術振興会特別研究員PD)の4名が「中国新出簡牘研究」というパネルを設定して正式エントリーをした。その際、可能ならばこの機会に「香港中文大学文物館蔵簡牘」に関する情報を収集できないかとの意見が出た。なぜなら、「香港中文大学文物館蔵簡牘」の中には戦国楚簡が含まれており、「上海博物館蔵戦国楚竹書」(以下、上博楚簡)の所収文献の一部ではないかと見られているものもあるからである。
そこで、湯浅教授がかねてから親交のあった鄭吉雄教授(元台湾大学教授、現在香港教育学院教授)に対し、3月中旬にメールで連絡をし、この簡牘に関して何か情報がないかとお尋ねしたところ、鄭教授はただちに香港中文大学歴史研究中心主任の黎明釗教授と恒生管理学院の張光裕教授に連絡を取ってくださり、学会前日の5月9日に簡牘を参観させていただく運びとなった。また、湯浅教授に対し、同大学での講演の依頼があった。これにより、参加メンバーは渡航日程を一日繰り上げ、5月8日に香港入りすることにした。
4月上旬、香港中文大学より正式な招待状がメールおよび国際郵便で届く。
5月8日、湯浅教授・金城助教・草野と通訳の白雨田氏(四天王寺大学非常勤講師)の4名が関空から香港に、また、当時台湾大学の訪問学者として台北に在住していた竹田教授が台湾から香港に渡航し、空港で合流した。
5月9日、午前8時45分、黎明釗教授が我々の宿泊先に車で迎えに来て下さり、香港中文大学に向かう。そして、午前9時30分~10時45分、中国文化研究所の一室にて「香港中文大学文物館蔵簡牘」の実見調査を行った。
「香港中文大学文物館蔵簡牘」は、2001年に『香港中文大学文物館簡牘』(陳松長編著、香港中文大学文物館)として公開されている。
詳細はこちら→新資料紹介・香港中文大学文物館蔵簡牘
今回実見した簡牘は、計82枚、全体の三分の一の分量に当たる。内訳は、以下の通りである(番号は、『香港中文大学文物館簡牘』と対応)。
- 戦国楚簡、10枚。1~10
- 遣策、11枚。120~130
- 奴婢廩食粟出入簿簡牘、31枚。131~137、138~147、148~161
- 河隄簡、15枚。200~214
- 序寧簡、14枚。226~230、231~239
- 晋代「松人」解除木牘、1枚。240
香港中文大学文物館の方の説明によると、これらの簡牘は、1980年代末から90年代にかけて、香港の骨董屋から少しずつ購入し、収蔵されたとのことである。
購入時は、脱水されていない泥の塊の状態であったため、1995年当時、湖北省博物館の脱水処理の専門家であった陳中行氏を香港に呼び、脱水作業が行われた。脱水前には赤外線撮影が行われており、『香港中文大学文物館蔵簡牘』の中で文字が不鮮明な簡牘については、その赤外線の写真も掲載されている。
1999年には、湖南省博物館副館長(当時)の陳松長氏が半年ほど香港に滞在し、簡牘の分類整理を行った。
今回実見した戦国楚簡と遣策の全簡および河隄簡の1簡分は、一枚ずつガラスケースに挟まれており、そのほかの簡牘はガラスケースなどには挟まれておらず、そのままの状態であった。
白い円形のシールに書かれた番号は収蔵時に便宜上付けられた番号、色つきのシール(青・緑・黄色など)に書かれた番号は整理後に付け直された番号で、後者は『香港中文大学文物館蔵簡牘』の番号と対応している。
戦国楚簡は10枚すべてが残簡であるが、公開当初から上博楚簡と関連が深いことが指摘されていた。特に、以下の4枚は、上博楚簡所収文献の一部であることが、上博楚簡の各分冊において述べられている。
- 第1簡と上博楚簡『緇衣』(第一分冊)
- 第2簡と上博楚簡『周易』(第三分冊)
- 第3簡と上博楚簡『子羔』(第二分冊)
- 第4簡と上博楚簡『三徳』(第五分冊)
また、近年発表された論文、李松儒「香港中文大学蔵三枚戦国簡的帰属」(張徳芳主編『甘肅省第二届簡牘学国際学術研討会論文集』、上海世紀出版・上海古籍出版社、2012年12月、599~601頁)において、第5簡・第6簡・第8簡は、上博楚簡『季庚子問於孔子』(第五分冊)に属するのではないかとの指摘がなされている。そこで、簡牘参観中に湯浅教授が李松儒氏の論文のコピーを提示し、意見を求めたところ、黎明釗教授はじめ関係者各位は、まだこの論文の存在を知らなかったとのことで、コメントはいただけなかった。
上博楚簡は、竹簡の背面の写真は、文字が書写されているもの以外は公開されていない。以前、上博楚簡の実見調査を行った際も、竹簡の背面は文字が書写されている部分しか見ることができなかった。(詳細は、中国出土文献研究会「中国新出簡牘學術調査報告―上海・武漢・長沙―」(『中国研究集刊』第55号、2012年12月)参照。)
一方、今回の実見調査においては、戦国楚簡の背面も見ることができた。近年、竹簡の背面にある墨線や劃痕(ひっかき傷状の斜線)が竹簡の排列の手がかりになる可能性があるために注目を集めているが、これらの戦国楚簡の背面には、そうしたものは確認できなかった。
上博楚簡は公開途中であり、まだ全体を見渡すことができない。そのため、上博楚簡が全て公開された段階で今一度総括し、「香港中文大学文物館蔵簡牘」の戦国楚簡を上博楚簡の一部とみなして良いかどうかという点も含めて、再検討する必要があろう。
漢代簡牘については、もともと西北の甘肅省のあたりで出土したのものではないかとの推測がなされているそうであるが、詳細は不明とのことである。遣策は、編縄痕がはっきりと残っているのが特徴的であった。奴婢廩食粟出入簿簡牘148は、契口が4つ見られる珍しい例であった。
参観中、写真撮影をしても良いかどうかをお尋ねしたところ、すでに公開されている簡牘であるため、問題ないとのことであった。また、手袋を付けた上で、簡牘を実際に手に取って見ても良いとのことで、簡牘一つ一つをじっくり見ることができた。
簡牘参観終了後は、馮景禧楼101室に移動し、11時から12時20分まで、湯浅教授による講演が行われた。講演タイトルは「上博楚簡〈舉治王天下〉的古聖王傳承」、司会は張光裕教授、通訳は白雨田氏、参加者は20名。講演後は活発な討論が行われた。
最後に、鄭吉雄教授、黎明釗教授、張光裕教授をはじめとする関係者各位のご高配とご教示に対し、心より感謝申し上げたい。
(草野友子)