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清華大学竹簡

中国出土文献研究会による清華大学竹簡の実見については、
こちらを参照 『中国研究集刊』第50号280~288頁

【『清華大学蔵戦国竹簡(壹)』について】

(清華大学出土文献研究与保護中心編・李学勤主編、中西書局、2010年12月)

※本内容は、大阪大学中国哲学研究室「新出土資料関係文献提要(十一)」金城担当箇所(『中国研究集刊』崗号(第54号、2012年6月))より抜粋し、記述している。

清華大学蔵戦国竹簡(清華簡)の図版(写真版)と釈文とを収載した書。全約2400簡を収録予定で、本書はその第1分冊にあたる。上下2冊よりなり、上冊にはカラーの原寸大図版・有字簡拡大図版が収められ、また下冊には釈文と注釈とが示されている。

■『清華大学蔵戦国竹簡〔壹〕』に所収の文献内容

清華簡には『尚書』や『逸周書』、また『竹書紀年』などの史書に類似する文献が含まれていると公表されており、多くの研究者の注目を集めている。
本書には、『尹至』『尹誥』『程寤』『保訓』『耆夜』『周武王有疾周公所自以代王之志(金縢)』『皇門』『祭公之顧命(祭公)』『楚居』の9篇が収められている。以下、各文献の内容について簡単に紹介する。

  1. 『尹至』(いんし)

    全5簡、簡長約45センチ、三道編綫(編線)、整理者は李学勤氏。篇題はなく、冒頭の「惟尹自夏徂亳、逯至在湯」により「尹至」と名付けられた。『尚書』の商書諸篇との関連が指摘されている。本篇には、夏の滅亡と殷の勃興について湯王と伊尹が問答し、湯王が諸侯を服従させ、徳に従い行動して、夏を破る内容が記されている。なお、『尹至』は竹簡形制や字体が『尹誥』と合致するため、同一人物により書写された可能性が指摘されている。
  2. 『尹誥』(いんこう)

    全4簡、簡長約45センチ、三道編綫、整理者は李学勤氏。篇題はなく、伝世文献との対応やその内容から「尹誥」と名付けられた。本篇は、孔壁古文逸書16篇のうちの1篇に該当すると考えられている。内容は、『尹至』同様、湯王と伊尹の問答形式で記されており、伊尹が夏の滅亡の原因を、夏の君(桀)が民を蔑ろにし、民が離叛したためであるとし、それを防ぐためには、夏の財宝を民に分与する必要があると説いている。
  3. 『程寤』(ていご)

    全9簡、簡長約45センチ、三道編綫、整理者は劉国忠氏。篇題はなく、「程寤」とは整理者が内容に基づいて付けた仮称である。本篇は、これまで『芸文類聚』や『太平御覧』などに一部引用されていた古逸書の『逸周書』程寤篇であると考えられている。内容は、周の文王の妻太姒が、殷に代わり周の天下統治を予感させる夢を見るが、文王はまだ殷の力が強く、周の天下統治には長期的な策謀が必要であるとして、太子発(後の武王)に訓戒を告げるものとなっている。
  4. 『保訓』(ほうくん)

    全11簡、簡長約28.5センチ、両道編綫、整理者は李守奎氏。篇題はなく、内容に基づいて「保訓」と名付けられた。本篇には、周の文王が太子発に対して遺訓を施す内容が記されている。本篇中、文王は、優れた事例として舜や上甲微(湯王の六代先)の行いを挙げ、太子発に慎み深くし、怠ることのないようにと戒めている。なお、本篇は『清華大学蔵戦国竹簡(壹)』の刊行以前にすでに釈文が公開されており、本文中に見える「中」の解釈について、多くの研究が発表されている。
  5. 『耆夜』(きや)

    全14簡、簡長約45センチ、三道編綫、整理者は趙平安氏。第14簡背面に篇題「★(旨+おおざと)夜」が見える。本篇は古逸文献であるが、「蟋蟀」と名付けられた歌と『詩経』国風・唐風の「蟋蟀」との間に関連が指摘されている。内容は、武王即位八年、周が耆を征伐した後、文王の太室にて行われた飲至の儀礼に関するものである。そこでは武王・周公旦がそれぞれに向け、また畢公に向けて歌を詠み、戦功を称えると同時に、周公旦が勝利に酔いしれていてはいけないと教戒的な歌を詠ずる。
  6. 『周武王有疾周公所自以代王之志(金縢)』(しゅうのぶおうしつありてしゅうこうみずからもっておうにかわるところのこころざし(きんとう))

    全14簡、簡長約45センチ、三道編綫、整理者は劉国忠氏。第14簡の背面下部に篇題「周武王有疾周公所自以代王之志」が見える。本篇は今本『尚書』金縢篇とおおよそ合致する内容である。全体は以下の3つの場面に分けられる。①病に伏した武王のために、周公旦が自ら身代わりとなろうと先王に祈る場面。②幼い成王を助け政治を行う周公旦が、兄弟の流言のために不遇な境遇に陥る場面。③成王が周公旦の武王に対する献身的な態度を知り、自らの周公旦への態度を改めたことにより、天災が止むという場面。今本『尚書』との対照により、字句や篇題、『尚書』成立に関する諸問題の解決が期待される。
  7. 『皇門』(こうもん)

    全13簡、簡長約45センチ、三道編綫、整理者は李均明氏。篇題はなく、内容が『逸周書』皇門篇とおおよそ一致することから「皇門」と仮称された。本篇には、周公旦が血族や近臣に向けて、歴史を鑑とし、私心を捨てて賢人を推挙し、王の国政を助けるよう訓戒する内容が見える。
  8. 『祭公之顧命』(さいこうのこめい)

    全21簡、簡長約45センチ、三道編綫、整理者は沈建華氏。第21簡の表面下部に篇題「祭公之顧命」が見える。本篇は『逸周書』祭公篇とほぼ合致する内容である。病を患った祭公謀父が穆王に対して、夏・殷の滅亡を教訓とし、周の基盤となる文王・武王の功績を守り言行を正しくせよと訓戒する。また、執政を行う三公(畢桓・井利・毛班)に向け、王を補佐し国を保持するよう告げている。
  9. 『楚居』(そきょ)

    全16簡、簡長約47.5センチ、三道編綫、整理者は李守奎氏。篇題はなく、内容が『世本』居篇に類似することから『楚居』と仮称された。本篇には、楚の歴代君主の所在や国都の変遷が記されており、また「楚人」や「★(上部:亦+下部:示=読み:えき)」(儀式の名)、「郢」(楚の都)などの語句の由来も窺える。本篇は、楚の在地性文献として重要な情報を提供するものと考えられる。

なお、郭店楚墓竹簡や上海博物館蔵戦国楚竹書とは異なり、清華簡には、『程寤』『保訓』『楚居』を除く各文献ごとに、竹簡の背面に配列番号が記されており、錯簡や脱簡を疑う余地はない。

また、各篇の釈文末には、関連する伝世文献の引用や関係系図が附され、各篇を比較検討する上で簡便である。

さらに、巻末には「字形表」および「竹簡信息表」が附されており、文字を確定、または書誌情報を確認する上で有用である。「字形表」には、釈文において隸定された字形に基づき、およそ3216字(重文含む)が収録され、「竹簡信息表」には、各簡ごとに「篇序」「篇名」「整理序号」「入蔵編号」「長度」「簡背原有編号」「編痕状況」「備註」が記述されている。

『清華大学蔵戦国竹簡(貳)』について】

(清華大学出土文献研究与保護中心編・李学勤主編、中西書局、2011年12月)

整理釈読作業を経て、2010年12月に刊行された第1分冊に引き続き、2011年12月に刊行された『清華大学蔵戦国竹簡』の第2分冊。第1分冊には、9つの文献が収録されていたが、第2分冊では、わずかに『繋年』(周・晋・楚などの歴史的事件を記した書)と題される一篇のみの図版と釈文とを収めている。

『繋年』は未見の歴史書であり、もともと篇題は付けられていなかった。『繋年』とは、記載された内容に紀年が多く記されていたことによる仮称である。

全23章で、周の初期から戦国時代前期までの歴史内容が記述されている。文体や内容の一部が、西晋時代に汲冢より発見された『竹書紀年』と近く、注目される。

各章の整理責任者は、次のとおりである。

  • 第1~4章:李学勤氏
  • 第5~8章:趙平安氏
  • 第9~11章:沈建華氏
  • 第12~15章:李均明氏
  • 第16~19章:劉国忠氏
  • 第20~23章:李守奎氏

【『清華大学蔵戦国竹簡(参)』について】

(清華大学出土文献研究与保護中心編・李学勤主編、中西書局、2012年12月)

※本内容は、金城未来「『清華大学蔵戦国竹簡〔参〕』所収文献概要」(『中国研究集刊』號号(第56号、2013年6月))より抜粋し、記述している。

清華簡は、2008年に竹簡の整理作業が開始されて以来、2010年に図版と釈文とを掲載する第1分冊が、翌2011年には第2分冊が出版されている。本書はその続編にあたり、『説命』(上・中・下)、『周公之琴舞』、『芮良夫毖』、『良臣』、『祝辞』、『赤あ之集湯之屋』の6種8篇の文献が収録される。

清華簡(三)の「本輯説明」によれば、『説命』は『尚書』関連の文献であり、その他5種は佚書であるという。また佚書中、特に『周公之琴舞』は伴奏付きの舞踏に関わる頌詩、『芮良夫毖』は『毛詩』大雅に関する風刺詩であり、いずれも中国古代の詩や楽について検討する上で重要な文献であると指摘されている。

■『清華大学蔵戦国竹簡〔参〕』に所収の文献内容

①『説命』(上・中・下)(えつめい)

(1)書誌情報

整理者は李学勤氏。上・中・下の三篇よりなり、同一人物によって書写された可能性が指摘されている。竹簡数は全24簡(『説命(上)』全7簡、『説命(中)』全7簡、『説命(下)』全10簡)、簡長は約45㎝、竹簡の背面には編号が記され、上・中・下、各篇の最終簡背面には、それぞれ篇題「傅説之命」が見える。

(2)概要

『説命』は『尚書』と密接に関わる文献であると考えられる。『尚書』序には「高宗夢得説、使百工営求諸野、得諸傅巌。作『説命』三篇(高宗夢に説を得、百工をして諸を野に営求せしめ、諸を傅巌に得たり。『説命』三篇を作る)」とあり、指摘されている篇数が清華簡『説命』と合致する。

『説命』は、漢代初期の伏生が伝える今文『尚書』中には見えず、孔穎達『尚書正義』が引く鄭玄の説く孔壁古文『尚書』(伏生のものより16種(巻)24篇多い)中にも、見ることができない。一方、東晋に梅賾が献上した孔安国伝本『尚書』には、3篇の『説命』が含まれているが、これらの文献については、先人がすでに偽書であることを明らかにしている(これらを偽古文『尚書』という)。清華簡『説命』と偽古文『尚書』説命とを対照すれば、偽古文『尚書』説命が、先秦の文献中より選び集められたものを除き、清華簡『説命』と全く異なる内容であることが窺える。

②『周公之琴舞』(しゅうこうのきんぶ)

(1)書誌情報

整理者は李守奎氏。竹簡数は全17簡。第17簡末尾の文字の後に墨鉤が見え、その下は留白となっているため、それが篇末であったことが窺える。竹簡の背面には編号が記され、第1簡の背面上端には、篇題「周公之琴舞」が記述されている。

本篇は、清華簡(三)所収の『芮良夫毖』と形制・筆跡が同一であると考えられ、内容についても、両篇ともに詩に関するものであることから、同時に書写された可能性が指摘されている。

『芮良夫毖』の第1簡背面には、篇題と思われる「周公之頌志(詩)」の文字が見えるが、削り取られた痕跡があり、筆跡は明瞭ではない。また、篇題とその竹簡正面に記された内容とには関連性がなく、書写者あるいは書籍管理者が、『周公之琴舞』の内容によって、両篇を総括し篇題を付け、『芮良夫毖』の背面にその篇題を誤写した可能性が指摘されている。これについて、整理者は、誤写発見後、篇題は削り取られたものの、完全には削除しきれなかったのではないかと述べる。さらに、竹簡の篇題は、もともと(文献を他の書物と区別し)選び取るのに都合がよいために加えられたものであり、篇題に別称があったとしても特に不自然ではない。そのため、『周公之琴舞』は「周公之頌志(詩)」と称されていた可能性も大きいとしている。

(2)概要

『周公之琴舞』には、初めに周公の多士(多くの役人)に対する教誡的内容の詩(一部(四句のみ))が配されており、整理者によりそれが一組の頌詩の冒頭部分にあたるものであった可能性が指摘されている。本篇には、続いて成王が作成した訓誡的内容の一組9篇の詩が記述される。その詩の第1篇は、今本『毛詩』周頌の「敬之」にあたるものと考えられ、ここからこれらの詩が、『毛詩』周頌と関連の深い文献であったことが窺える。

周公の頌と、成王が作成した「敬之」を除く8篇の頌とは、今本ではすでに散逸しており伝わらない。

③『芮良夫毖』(ぜいりょうふひ)

(1)書誌情報

整理者は趙平安氏。竹簡数は全28簡、簡長は約45cm。各簡には、おおよそ30字が筆写されている。第1簡背面には、もともと篇題「周公之頌志」が記されていたが、明らかにそれらには削り取られた痕跡が窺える。そのため、現時点においては、整理者により、内容に基づき「芮良夫毖」と仮称されている。
本篇には14の断簡が含まれており、綴合作業を経た後も、依然として7簡が残欠した状態であるが、竹簡の背面には、編号が記されており、配列に問題はない。

(2)概要

本篇には、古風な表現が使用されている。内容については、まず周の厲王の時の情勢が記され、続いて芮良夫が毖(ひ)(戒めの言葉)を作ったことが記載されている。芮良夫は、当時における悪弊を的確につき、以下、君主が天の常理を畏敬すべきであること、民意を親身になって考慮すべきこと、恩恵と刑罰とを共に施すべきこと、佞人を用いないこと、また君臣は利を貪り享楽に耽ってはならないこと、謹んで守り行うべきことなど、種々の教誡的な言葉を述べている。

芮良夫が厲王を諫め、百官を戒めたという内容は、伝世文献に散見する(例えば『逸周書』芮良夫解・『国語』周語上・『史記』周本紀など)。さらに、芮良夫によって作成されたと伝えられる『毛詩』大雅・桑柔もまた、本篇を検討するにあたり参照すべきである。

④『良臣』(りょうしん)

(1)書誌情報

整理者は沈建華氏。竹簡数は全11簡で、文字の欠失は見られない。簡長は約32.8cm。もともと竹簡に篇題は記されていなかった。

『良臣』と清華簡(三)所収の『祝辞』とは、もとは同一の書写者によって、一編の連続した竹簡上に記されていた可能性が指摘されている。しかし、両文献の内容は明らかに異なっており、そのため、現時点においては、整理者により、それぞれ「良臣」「祝辞」と仮題されて区別されている。

(2)概要

本篇は連続筆写されており、途中、墨節で分割され、20の小段に区切られる(「釈文」では、分段して表示されている)。内容は、黄帝から春秋時代までの著名な君主の良臣を記すものであり、おおよそ黄帝より周の成王に至るまでは時代順に、春秋時代の晋の文公から鄭の子産の師・輔に至るまでは国別に配列されている。なお、本篇に記載される人物中には、伝世文献に未見のものや、その人物の時代が従来の見解と異なるものもおり、注意を要する。

本篇の特質として、記された文字の中に、「晋系」の筆写法に属するものが見える点が挙げられる。また、本篇中には、特に鄭の子産の存在が強調されており、「子産之師」や「子産之輔」にあたる人物が詳述されていることから、本篇の作者を鄭と密接に関わる人物であったとする説も提示されている。

⑤『祝辞』(しゅくじ)

(1)書誌情報

整理者は李学勤氏。竹簡数は全5簡。もともと清華簡(三)所収の『良臣』と連続筆写されていたと考えられている。

(2)概要

本篇は、「巫術の類」に属する文献と考えられ、各簡ごとに一則(条)の祝辞が筆写されている。各簡に見える祝辞の内容は次のとおり。

1条目には「恐溺」、すなわち落水や沈溺を防止する祝辞が記述され、2条目には「救火」の祝辞が記されている。また残り3条には、全て「射箭(矢を射ること)」に関する祝辞が記載されており、それらはそれぞれ、敵を射ること、禽獣を射ること、革製の甲や盾等を射ることの3種に分類できる。

『礼記』郊特牲の孔穎達疏には「祝、呪也(祝とは、呪なり)」とある。「祝辞」とは、すなわち「呪語(呪まじないの文句)」であり、難解な文が多いが、本篇はこれらの具体的内容を認識できる貴重な資料であると考えられる。

⑥『赤★(鳥+咎)之集湯之屋』(せききゅうのとうのおくにとどむ)

(1)書誌情報

整理者は劉国忠氏および邢文氏。竹簡数は全15簡、三道編綫、簡長は約45㎝。竹簡の保存情況は比較的良好であるが、第1簡と第2簡の末端が僅かに残欠しており、それぞれ一文字分を損失している。竹簡の背面竹節部には、編号が記され、第15簡の背面下端には、篇題「赤★(鳥+咎)之集湯之屋」が見える。また、本篇の竹簡背面上部には、劃痕が確認できる。

(2)概要

本篇には、湯が一羽の赤鵠を射、伊尹にそれを煮て羹を作らせ、さらにこの行為により引き起こされた種々の出来事が記載されている。この内容は、『楚辞』天問に見える「縁鵠飾玉、后帝是饗(鵠を縁り玉を飾りて、后帝是れ饗けたり)」と関連するものと指摘されている。

本篇において最も注目すべき特質は、強烈な巫術的性格が窺える点である。例えば、本篇では湯が伊尹に呪詛をかけ、彼を「視而不能言(視れども言うこと能わず)」という状態に陥らせる。また、その直後には、伊尹が「巫烏」と称される鳥に救われ、その際、天帝の命令(「二黄蛇與二白兔居后之寝室之棟(二黄蛇と二白兔とを后の寝室の棟に居)」らしむる命令)によって「夏后(桀)」が重病を患っていることを知る。その後、夏后の病の原因を理解したことで、伊尹は夏后の危難を救うことができたとされているのである。

本篇の内容について、整理者は、楚人が巫鬼(などの巫術)的習俗を深く信じていたことと関連するものであり、楚地に伝播した伊尹故事の一つであろうと述べている。

『清華大学蔵戦国竹簡〔肆〕』に所収の文献内容

(『清華大学蔵戦国竹簡〔肆〕』、清華大学出土文献研究与保護中心編・李学勤主編、中西書局、2013年12月)

1.『筮法』(ぜいほう)

整理者は李学勤氏。占筮の原理と方法について詳細に記されている。多くの数字卦(数字で記された卦象)によって占いの実例を示しており、この手法は天星観楚簡・包山楚簡・新蔡葛陵楚簡などと類似している。このことから、整理者によって「筮法」と名付けられた。分欄書写がなされており、その中に挿絵や表が含まれ、一枚の帛書のような体例になっている。

整理者は占筮の内容に基づいて釈文を三〇節に分け、それぞれ小題を附している。本篇は、先秦の三易(『連山』『帰蔵』『周易』)研究にとっても有用な史料であると考えられる。

2.『別卦』(べつか)

整理者は趙平安氏。篇題は整理者によって名付けられた仮称である。竹簡は現存七枚であるが、もともと八枚であったと見られる。各簡に『易』の八卦の卦象と卦名が記されており、その順序は乾・艮・坎・震・坤・兌・離・巽であり、坎を欠している。卦名は一簡ごとに七つずつ記され、卦象に含まれる卦名(八卦名)をあわせると、各簡八つの卦名が見えることになり、脱簡を考慮すれば、全八(簡)×八(卦名)=六十四卦が存在していたと考えられる。配列は馬王堆帛書『周易』と一致し、同系統の文献であると見られる。

3.『算表』(さんひょう)

整理者は李均明氏・馮立昇氏。計算機能が見える数学文献であり、篇題は整理者によって名付けられた仮称である。本篇は、九十、八十、七十、六十、五十、四十、三十、二十、十、九、八、七、六、五、四、三、二、一、半(二分の一)のうち、二つの数字を掛け合わせた乗算表となっている。十進法が見える文献の中で現存最古の乗算表であり、先に発見された里耶秦簡や張家山漢簡の九九乗算法よりもさらに一世紀ほど早く、中国古代の数学史研究に資する史料である。

『清華大学蔵戦国竹簡〔伍〕』に所収の文献内容

『清華大学蔵戦国竹簡〔伍〕』
(清華大学出土文献研究与保護中心編・李学勤主編、中西書局、2015年4月)

1.『厚父』(こうふ)

整理者は趙平安氏。最終第一三簡の背面には、篇題と見られる「厚父」の二字が別筆で記されている。『厚父』は王と厚父との対話形式の文献であるが、本篇にはその時代を特定するための直接的な手がかりが記されておらず、夏・商・周のどの王朝の文献であったかが議論になっている。

内容については、まず王が夏代の歴史に溯り、「永く夏邑を保つ」条件として、政に勤めること・人を用いること・天命を敬畏すること・祭祀に対して慎み深くすることの重要性を指摘し、厚父も政治をなおざりにすることが深刻な結果を招くと述べている。続いて王は自分の即時の行ないを紹介し、厚父はそれに対する応答の中で自分の認識と理念(天命を畏れること・民心を知ることなど)について説いている。
篇中の一部の本文は『孟子』梁恵王下篇に「書曰」として引かれた文章と類似しており、戦国期における『尚書』の実態解明に寄与するものと考えられる。

2.『封許之命』(ほうきょしめい)

整理者は李学勤氏。第九簡背面の下部には篇題「封許之命」が見える。整理者は、本篇を『尚書』の佚篇と見なしている。「命」とはもともと『書』の一つの形式であり、伝世の「書序」の中に多くの「命」の名が挙がっている。ただし、今の『尚書』には「文侯之命」一篇があるのみで、本篇は清華簡『傅説之命(説命)』(第三分冊所収)とともに「命」の性質と様相を理解するための一助となる。

本篇は、周初の許国封建に関する文献であり、許に封ぜられた呂丁が文王・武王を補佐し、周王(おそらく成王)を助けたという功績、および周王が呂丁に授けた恩賞や戒めの言葉などが記されている。特に、呂丁に授けられた車馬や器物などは詳細に記録されており、関連する典籍や青銅器の銘文と対照することができる。

大部分の内容は、西周・春秋時代の青銅器の銘文によく見られる冊命の形式と同様である。冊命はもともと竹簡に書写されていたものと考えられるが、現在、竹簡に書写された西周・春秋時代の冊命は発見されておらず、非常に珍しい例である。

3.『命訓』(めいくん)

整理者は劉国忠氏。篇題は見えず、その内容が『逸周書』命訓篇とおおよそ合致することから、「命訓」と仮称されている。

本篇の内容は、二部に大別することができる。前半部には主に、「大命小命」「福禄」「禍過」「恥」「生穀」「死喪」の六つをうまく人民に施せば、政治は適切に行われるということ、また天道と人道とを関連させ、明王は慎重に政治を行い、万民を牧う必要があるということが説かれている。一方、本篇後半部には、主に人民統治に必要な一二の項目(恵・均・哀・楽・礼・芸・政・事・賞・罰・中・権)について、それぞれどのように用いるべきかが列挙されている。

本篇は、『逸周書』の中で命訓篇と関連の深い文献(「度訓」「常訓」「武称」「大匡」など)の成立や思想内容、語句表現などを検討する上でも、大いに役立つものと考えられる。

4.『湯処於湯丘』(とう とうきゅうにおる)

整理者は沈建華氏。篇題は、第一簡冒頭の五字から名付けられた仮称である。本篇は伊尹に関する故事が記された文献であり、その内容の一部は、『墨子』貴義篇・『呂氏春秋』本味篇・『史記』殷本紀などにも見える。『漢書』芸文志に記載される「伊尹書」は現在亡佚して伝わらないが、その佚篇である可能性もある。

本篇は大きく三つの場面から構成されている。第一場面では、湯と伊尹の出会いの場面が描かれる。第二場面では、伊尹のもとに通う湯と、それに対して苦言を呈する臣下のほうい方惟との問答が展開される。また第三場面には、湯の質問に伊尹が答える君臣問答が見られ、四つの問答(夏の徳・夏に勝つ方策・「自愛」の方法・君主と臣下の努めについて)がなされている。整理者は本篇に見える「敬天」「尊君」「利民」の主張に着目し、戦国期の黄老刑名思想に近い内容を有するものであると指摘している。

なお、本篇は竹簡形制や字迹が『湯在啻門』(第五分冊所収)と合致しており、内容的にも関連が深く、同一人物によって書写されたものと考えられている。

5.『湯在啻門』(とう ていもんにあり)

整理者は李守奎氏。篇題は、第一簡に見える字句から名付けられた仮称である。本篇は、伊尹に関する故事を記した古佚文献であり、湯王が小臣(伊尹)に先帝の良言を問い、小臣が「成人」「成邦」「成地」「成天」の道を答えたことが記されており、比較的系統的に、当時の天人観が述べられている。

本篇全体は、五味の気と生命との関係について論ずることが特に詳細であり、青玉行気銘(天津市歴史博物館に所蔵されている一二面体の小玉柱の銘。原拓は羅振玉『三代吉金文存』第二〇巻収録)の類いの気功養生説と密接な関係がある。

また本篇には、人の生老病死に関する気の議論が述べられている他に、政治は簡明で刑罰が軽く、成果を挙げなければならないとする議論や、さまざまな神について述べる天地についての議論が見られ、思想内容としては雑然としている。なお、本篇は整理者によって、湯王と伊尹とに仮託し、戦国時代に成立したものであろうと指摘されている。

なお、本篇は竹簡形制や字迹が『湯処於湯丘』(第五分冊所収)と合致しており、内容的にも関連が深く、同一人物によって書写されたものと考えられている。

6.『殷高宗問於三寿』(いんこうそうさんじゅにとう)

整理者は李均明氏。末簡(第二八簡)背面上部に篇題「殷高宗問於三壽」が記載されている。

内容は、殷の高宗武丁と三寿(主として彭祖)との対話に仮託し、作者の思想を述べたもので、天人相関説がその基調をなしている。全体は二部に分けられ、前半は「長」「険」「厭」「悪」の四つの観念を提出し、具体的な事物との因果関係を説き、末尾で、殷の乱世に対する自警を述べる。また後半は、国家の統治や個人の修養に関わる「祥」「義」「徳」「音」「仁」「聖」「知」「利」「信」という九つの観念を提出してそれぞれの具体的内容を説き、末尾で、王朝交代に際する彭祖の感嘆や、民の「揚」「晦」といった性格と統治についての問答を記す。

本篇は儒家思想を中心としているが、他学派の思想も取り入れており、戦国時代中期の特色を備えていると考えられる。上博楚簡『彭祖』や馬王堆漢墓竹簡『十問』とともに、彭祖伝承の展開を考える上でもきわめて重要な資料であると考えられる。

『清華大学蔵戦国竹簡〔陸〕』に所収の文献内容

『清華大学蔵戦国竹簡〔陸〕』(清華大学出土文献研究与保護中心編・李学勤主編、中西書局、2016年4月)

1.『鄭武夫人規孺子』(ていぶふじんきじゅし)

整理者は李均明氏。篇題は整理者によって名付けられた仮称である。
本篇は、春秋初期に鄭の武公が死去して下葬されるまでの前後の出来事を記したものである。武公の夫人の武姜らは後継者の荘公に対して、先君武公の治国の経験を汲み取り、霊柩を守る期間は大夫老臣に権利を譲渡するように忠告している。また、辺夫の二度の訓戒、すなわち一度目は諸大夫に先君の葬儀を慎んで行わせること、二度目は寡黙な後継者に対する大臣らの懸念を受け入れることが述べられている。そして荘公は、辺夫に対する答えを通して、諸大夫に先君を畏敬するよう導き、同時に彼らに自分の意思に従って事を行うことを求めている。全篇、対話形式を主とし、その間に対話に関係がある史事が挿入されている。

伝世の歴史書には、鄭の武公と武姜は後継者問題についての意見が食い違っていたという記載があるが、叙述は簡略で本篇のような内容は見られない。それゆえ、本篇は春秋初期の鄭国の歴史研究に対して重要な史料を提供している。

2.『管仲』(かんちゅう)

整理者は劉国忠氏。斉の桓公と管仲による問答形式であることから、整理者によって「管仲」と名付けられた。『漢書』芸文志の道家類には『管子』の一書が著録され、劉向の『別録』によると「所校讐中管子書三百八十九篇、大中大夫卜圭書二十七篇、臣富參書四十一篇、射聲校尉立書十一篇、太史書九十六篇、凡中外書五百六十四、以校除複重四百八十四篇、定著八十六篇、殺青而書、可繕寫也」とされている。漢代の八十六篇本『管子』は劉向によって整理され、重複分が削除されて、現存は七十六篇であり、その残りの十篇は目録にはあるが書はない。本篇と現行本『管子』とは篇章の体例が類似し、思想も通じあう。しかし、内容は異なっており、おそらく『管子』の佚篇に属するものであると見られる。

簡文は対話形式で展開され、管仲の治国理念を窺うことができ、その中には陰陽五行思想が多く含まれている。また、本篇には『尚書』洪範からの引用が見え、洪範の成立年代の問題や、『管子』各篇の年代の問題に対して、新たな史料を提供している。

3.『鄭文公問太伯(甲・乙)』(ていぶんこう たいはくにとう)

整理者は馬楠氏。篇題は整理者によって名付けられた仮称である。甲本・乙本の二種があり、内容は基本的に同じであるが、同一の書写者が異なる二つの底本によって抄写したものである可能性が指摘されている。

本篇には、鄭の太伯(荘公の子である子人の長男、厲公の同母弟)が臨終の際に鄭の文公(厲公の子)に対して告げた訓戒の言葉が記載されている。太伯は、鄭国の桓公・武公・荘公以来の東遷と辺境地方開拓、昭公・厲公の戦争討伐の史事を列挙し、最後に文公に対して、先君を追慕し、己に克ち欲を節し、賢良を任用するように戒めている。簡文の多くは『左伝』『国語』などの書の記載を裏付けるもので、特に桓公・武公・荘公の前期は両周期に当たるものの文献の記載が少ないため、本篇は史事を補充するという資料的価値を備えている。

4.『子儀』(しぎ)

整理者は趙平安氏。篇題は整理者によって名付けられた仮称である。

本篇には、秦・晋による殽の戦い(秦の穆公は、晋の恵公の死去後、恵公の兄の重耳を晋に入れ、文公として即位させた。その治世の際に秦は晋に押されるようになった)の後、秦の穆公が楚と友好関係を樹立するために、自発的に楚の子儀を送還したことが述べられている。送還の過程については、秦の穆公と子儀の対話の中で詳細に描写されており、殽の戦いの前後の秦・晋・楚の三国の関係と春秋の外交辞令を理解するのに重要な史料である。

ただし、簡文の対話には隠語が多く用いられており、具体的な背景資料が欠乏していることから、内容を正確に把握することが難しい文献である。

5.『子産』(しさん)

整理者は李学勤氏。篇題は整理者によって名付けられた仮称である。本篇中のいくつかの文字は、典型的な三晋系の筆写法であり、作者あるいは抄写者は鄭と関係がある人物である可能性が指摘されている。

本篇は、鄭の子産の道徳修養と施政について述べたものであり、伝世文献やこれまでに出土した文献には見られない内容である。全体は十個の小段落に分けられており、前の九段は「此謂……」で結ばれている。冒頭は、「聖君」がどのように民を利し自ら努力して向上すべきか、民衆の信頼・擁護を得るかについて述べ、子産が重臣としていかに「自勝立中」であり、「助上牧民」を行っているかを説明している。本篇中には、子産が先達の賢哲から学ぶことに努め、良臣を集めて「六輔」とするなどの政治行為について述べられている。特に、子産が夏・殷・周の「三邦之令」「三邦之刑」を参考にして「鄭令」「野令」「野刑」を制定したことに言及し、子産が刑書をなしたとする『左伝』の記載を証明・補充するに足る史料である。

『清華大学蔵戦国竹簡〔柒〕』に所収の文献内容

『清華大学蔵戦国竹簡〔柒〕』(清華大学出土文献研究与保護中心編・李学勤主編、中西書局、2017年4月)

1.『子犯子餘』

2.『晋文公入於晋』

3.『趙簡子』

4.『越公其事』 >

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