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「新出楚簡国際学術研討会」参加記 No3 各会員による報告

二 各会員による報告

報告1(湯浅邦弘)報告2(福田哲之)報告3(竹田健二)報告4(浅野裕一)

報告1(湯浅邦弘)

発表の概要と質疑応答

二〇〇六年三月二十七日、筆者は、戦国楚簡研究会の第二十九回研究会(於大阪大学)において、刊行されたばかりの『上海博物館蔵戦国楚竹書』第五分冊に収録された新出土文献『三徳』を取り上げ、その全文の釈文・考察を発表した。その後、この釈文・考察を基に、武漢大学発表用の研究論文を執筆し、学内の中国人留学生の協力を得て中国語に翻訳、それをPDFファイルにして五月下旬に武漢大学に送信した。

筆者がこの『三徳』に注目したのは、そこに、極めて興味深い天人相関思想が見られたからである。

『三徳』は、まず、「天は時を供し、地は材を供し、民は力を供し、明王思う無し。是れを三徳と謂う(天供時、地供材、民供力、明王無思。是謂三徳)」と、「天」「地」「人」のいわゆる三才の世界構造を提示する。しかし、全体の議論は、この三者を均等に扱うのではなく、専ら「天」と「人」との関係に終始する。しかも、その天人関係は、人為が天(皇天・上天・上帝・鬼神)の知る所となり、天がその人為に応じた禍福を人間(王・邦)に降すという明快な天人相関思想として説かれている。

筆者の分析によれば、その天人関係の論述は、おおよそ以下の五つに分類できる。第一は、人為の良否の内、「良」について論ずるものである。それが「天の常に順う(順天之常)」ことになると説くものや、それが「天礼」であると説くものもある。第二は、人為の良否の内、「否」について論ずるものである。「毋~~、毋~~」と禁止の構文が多用され、それらの人為が「大戚+心(憂)」「不祥」「忘神」などの語で総括される。

第三は、人為(良否)に対応する結果が明示されるものである。当然のことながら「良」の人為については「福乃ち来る(福乃來)」という良い結果、「否」の人為については「邦家其れ壊れん(邦家其壊)」「土地乃ち★(土+斥)かれ、民人乃ち喪ぶ(土地乃★(土+斥)、民人乃喪)」「大禍有らざれば必ず大恥あり(不有大禍必大恥)」などという悪い結果が示される。即ち、人為の善悪に対応して福禍がもたらされるという明快な因果律を説く。ここに直接「天」「帝」などの語は見えないが、こうした良否の結果は天人相関の結果としてもたらされたものという意識が前提にあると推測される。

第四は、良い人為が天に感応し、天から良い結果が降されると説くものである。天の側は「天命」「上帝」「天」「天之時」「鬼神」などの語で表され一定していないが、いずれも、「上帝是れ祐く(上帝是祐)」「上帝乃ち怡ぶ(上帝乃怡)」「天之に従う(天從之)」「鬼神是れ祐く(鬼神是祐)」「上帝之を喜ぶ(上帝喜之)」のように人格神的に説かれる。

第五は、悪い人為が天に感応し、天から悪い結果(災異)が降されると説くものである。天の側は「天」「天神」「皇天」「上帝」「后帝」などの語で表され一定していないが、「□□を為す毋かれ、皇天将に之をいましめんとす。偽詐を為す毋かれ、上帝将に之を憎まんとす(毋爲□□、皇天將■之。毋爲僞詐、上帝將憎之」「忌むべくして忌まざれば、天乃ち災いを降し、已むべくして已めざれば、天乃ち異を降す(忌而不忌、天乃降災、已而不已、天乃降異)」「上帝諒とせず(上帝弗諒)」のように、いずれも右の第四類と同じく、人格神的に説かれる。また、「其の身没せずして、孫子に至る(其身不没、至于孫子)」と、天の降す「災」「異」によって天寿を全うできず、その災いが子孫にまで至ると説くなど、人為に対して強い警告が発せられる。

このように、『三徳』には、明快な天人相関思想が見られるわけであるが、特に、「災」「異」について説明する、「忌而不忌、天乃降災、已而不已、天乃降異。其身不没、至于孫子」などは、春秋公羊学において、「其の大略の類、天地の物、常ならざるの変なる者有り。之を異と謂う。小なる者之を災と謂い、災常に先ず至り、而して異乃ち之に隨う。災とは、天の譴なり。異とは、天の威なり(其大略之類、天地之物、有不常之變者、謂之異、小者謂之災、災常先至、而異乃隨之、災者、天之譴也、異者、天之威也)」(『春秋繁露』必仁且智)」と説かれる災異思想に展開する可能性を持っていたと言える点で、極めて注目される主張である。

写真3 研究発表:湯浅邦弘(中央)   右隣は郭斉勇教授

写真3 研究発表:湯浅邦弘(中央) 右隣は郭斉勇教授

残念ながら、『三徳』中には、その成立時期を特定できるような具体的な用語・固有名詞は見られない。しかし、『三徳』における極めて直接的な天人関係は、『詩経』や『書経』を想起させる。従って、この点から言えば、その成立についても、戦国時代の比較的早い時期と推定しておくのが妥当であろう。

その他、『三徳』に関する筆者の分析の詳細については、本号掲載の拙稿「上博楚簡『三徳』の天人相関思想」をご覧いただきたい。

ところで、この筆者の口頭発表に対しては、出席者から次のような質問があった。古代中国では、戦国時代の中期・後期に種々の術数が盛んとなるが、『三徳』の成立は、こうした状況と関係があるのか、と。

これに対して、筆者は概ね次のように回答した。『三徳』に見られる天人関係は、天と人とが直接向き合う構造になっていて、陰陽、日月、星辰、四時、刑徳などの、いわゆる天道思想を全く介在させない点に最大の特色がある。従って、その天人関係は、『詩経』や『書経』に見られるような、むしろ古い型の天人相関思想を止めており、術数論や占星術などの隆盛とは直接関係しない。もっとも、『三徳』には、成立時期を窺わせる固有名詞や用語はなく、具体的な成立時期を特定することは難しい。しかし、上博楚簡の炭素十四の測定値や竹簡の文字が戦国楚系文字で記されていることなどを勘案すれば、その成立時期としては、戦国時代中期以前の可能性が高いのではないか、と。

『三徳』に関する研究発表

なお、この『三徳』については、本学会において、筆者以外に二名の研究者が発表を行ったので、あわせて以下に紹介したい。

まず、曹峰氏「《三德》中的“皇后”為“黄帝”論」である。曹峰氏は、『上海博物館蔵戦国楚竹書』第五分冊が刊行されると、『三徳』に関する釈文・論考を、武漢大学「簡帛網」上に相次いで発表してきた。本発表も、それらの延長線上に位置する内容である。すなわち、上博楚簡『三徳』と馬王堆漢墓帛書『黄帝四経』とに多々類似点があるとした上で、『三徳』は典型的な黄老思想の著作であり、従って、『三徳』の中で「高陽」とともに「曰」字を付して発言者とされている「皇后」は、実は「黄帝」のことである、との結論である。

これに対して、同部会で曹峰氏の次に発表した福田一也氏「上博簡五《三德》篇中“天”的觀念」は、全く異なる結論を提示した。福田氏は、古代中国の天の思想には、「上天」「上帝」などの人格神的天と、陰陽・日月・四時などを具体的な内容とする理法としての天とが見られるが、『三徳』の天が前者であるのに対して、『黄帝四経』の天は後者であり、基本的な天の性格が異なると説く。そして福田氏は、曹峰説を批判して、『三徳』は黄老思想の著作ではなく、むしろ礼を重視する儒家的文献であるとする。

このように同じ部会で発表された両者の意見は、真っ向から対立する結果となった。筆者は、この部会が行われていた時間帯に、別の部会の主持人(司会)を務めていたので、質疑応答の状況については把握していない。ただ、後刻、福田一也氏にうかがったところでは、同部会の主持人から、まず、同じ『三徳』を扱いながら、二人の意見が全く異なるとの指摘があり、続いて、参加者の中から、『三徳』を分析する際、予め「道家思想(黄老思想)」や「儒家思想」といった枠組みで検討するのはどうか、との意見が出たとのことである。

筆者は、ある文献を検討する際、「黄老思想」や「儒家思想」という用語を使うこと自体は誤りではないと考える。作業仮説として、そうした用語を使って分析することは許されよう。但し、あくまで作業仮説であるべきそうした枠組みが、初めから結論になっていてはいけない。この点、曹峰氏の主張には、ややそうした傾向が見られる。

曹峰氏は、『三徳』と『黄帝四経』に多くの類似点があると主張する。それは、用語・用韻・句法といった観点からの類似点であり、そのこと自体に誤りはない。しかし、福田一也氏が指摘する通り、両者の思想の最も重要な基幹部分が類似しているのか、についての分析は見られない。

具体的に言えば、『黄帝四経』には、陰陽・四時・刑徳などの語に特徴的に見られる周期的天道の思想が見られる。そして、この天道の推移に応じて、人為、特に軍事行動の可能性が増減するという思考に、最大の思想的特徴が見られると言える。ところが、『三徳』には、そうした天道の思想が全く見られないのである。『三徳』が説くのは、前記の通り、天(上天・上帝・天神・后帝など)と人との直接的な相関関係である。であれば、いかに両者の類似点を列挙しようとも、それは枝葉末節の類似性を指摘したに過ぎない。むしろ、根幹部分の思想が異なる点にこそ注目すべきであろう。

従って、今回の発表における曹峰氏の見解、すなわち『三徳』の「皇后」は「黄帝」であるというのも、『三徳』と『黄帝四経』が同じく黄老思想の文献であり、かつ『黄帝四経』には高陽や黄帝が登場しているから、『三徳』にも「黄帝」が出てくるはずだ、という短絡的な論法になっていて、議論が倒錯していると言えよう。

類似性ということを指摘するのであれば、『三徳』については、その天の思想が酷似している『詩経』や『書経』をこそ取り上げるべきであり、また、『黄帝四経』については、浅野裕一氏『黄老道の成立と展開』(創文社、一九九二年)がすでに論証する通り、『国語』越語下篇などに注目すべきであろう。

研究の基本的方法論

両文献の類似点に着目して、インターネット上に次々と論考を発表する曹峰氏の精力的な活動には敬意を表するが、上博楚簡という個別具体的な資料を一旦離れて、そうした議論がそもそも成り立つのか、という自己点検をしてみないと、方法論としての有効性を欠いたまま、誤った結論を導いてしまうことになろう。

これと同様の危惧を抱いたのは、趙書生氏「上博楚簡《從政》與睡虎地秦簡《為吏之道》合論」である。これは、筆者が主持人を務めた関係上、強く印象に残った発表である。

趙氏の結論は次の二点に集約できる。第一に、上博楚簡『従政』と睡虎地秦墓竹簡「為吏之道」の思想内容は類似しており、ともに官吏に対して修身、言行、中庸、重民などを要求し、また、「礼」の作用を強調していて、いずれも儒家に属する。第二に、そのことは、戦国後期の楚・秦において法家思想が重視されていた状況と合致しないが、その合理的な解釈としては、次の二つが考えられる。1)当時、儒・法・道各思想融合の趨勢が出現していた。2)法家思想は当時の統治者にとっての主導思想であったが、民間では儒家が依然として大きな影響力を持っていた。

この発表は、上博楚簡と睡虎地秦簡とを比較する意欲的な研究であったが、やはり、根本的な方法論上の問題を抱えているように感じられた。まず、氏は、『従政』と「為吏之道」とはともに「官吏」のあり方を説いた書であり、同じく儒家の内容であるとするが、そもそも、両者の想定する役人には相当の懸隔があることに留意しなければならない。『従政』において「従政」者(または「君子」)とされているのは、相卿クラスの高官である。伝世文献でも、「従政」者とは、例えば、鄭の「子産」などがその代表として描かれるように、国政を左右するような高官である場合が多い。これに対して、「為吏之道」の「吏」とは、文字通り、末端統治の現場で働く小役人を指す。従って、この発表は、部分的な用語の類似にのみ目を奪われて、文献の基本的性格を完全に見誤っているのである。

次に、「為吏之道」と『従政』とを同じく儒家文献とすることにも、根本的な問題があろう。「為吏之道」に雑多な要素が見られるのは確かであるが、それは、秦が、占領地に秦律を浸透させるため、末端統治の現場で働く「吏」に、地方習俗への柔軟な対応を求めたからに他ならない。「為吏之道」の基本は、やはり法治であり、雑多な要素はその方便であると考えられる。

これに対して、『従政』の側は、『論語』との類似性が極めて高く、また、孔子の弟子たちの「従政」活動を勘案すれば、その基本的性格は、儒家自らが求めた「従政」の際の心得、といった点に求められるであろう。趙氏の見解は、こうした両者の基本的性格の相違を見落としたまま、部分的な用語の類似を拡大解釈してしまった末の誤解であると言えよう。

第三に、『従政』と「為吏之道」の成立時期を、ともに戦国後期から秦始皇三十年(前二一七)の間とする見解も、到底成立しない議論であろう。氏も発表論文の中で指摘する通り、『従政』は戦国楚系文字で記されており、氏自身、陳美蘭氏の説(前三一八~前二七八)を引用するように、その筆写年代は戦国時代中期、下限は前二七八年とするのが、現時点での通説である。一方、「為吏之道」は、同じく睡虎地秦簡の中の「編年記」の記載から、筆写の下限が、秦帝国成立四年後の前二一七年であることが判明している。『従政』と「為吏之道」の成立時期は、当然、別々に考えなければならない。ところが、氏は内容が似ているからという誤った判断を基に、その成立時期まで一括してしまうのである。あまりに乱暴な総括であろう。

なお、上博楚簡『従政』、および『従政』と睡虎地秦簡「為吏之道」との関係の詳細については、拙稿「上博楚簡『従政』の竹簡連接と分節について」(『中国研究集刊』騰号(第三十六号)、二〇〇四年)、「上博楚簡『従政』と儒家の「従政」」(同)をご覧いただきたい。この二篇は、後に『竹簡が語る古代中国思想』(浅野裕一編、汲古書院、二〇〇五年)に採録し、また、中国語に翻訳して、拙著『戰國楚簡與秦簡之思想史研究』(台湾・万巻楼、二〇〇六年)にも収録している。

さて、趙書生氏の見解にも、右のように重大な錯誤が認められる。そして、その基本的な方法論の誤りという点では、前記の曹峰氏の見解にも通ずる所がある。つまり、二つの文献を比較して、似ている所があるから両者は同じ思想文献であるという単純な断定である。二つの文献を比較する際には、部分的な用語の類似性だけではなく、最も根本的な思想の枠組みが類似しているかどうか、逆に、相違点はないのか、そもそも、多数の資料の中から、その二つの文献を抽出して比較することの必然性は何か、といった諸点にも留意しないと、決して妥当な結論は得られないであろう。
ことは楚簡に限らず、基本的な研究の方法論に関わる問題である。本学会において、新出土文献に関する多くの研究が発表されたことは、誠に喜ばしいことではあったが、一方で、このように到底成立しがたい研究が散見されたことには、驚きを禁じ得なかった。

(湯浅邦弘)

報告2(福田哲之)

発表の意図と概要

 筆者は、「上博五《季康子問於孔子》的編聯与結構」と題する論文を提出した。この論文は、第二十九回戦国楚簡研究会(三月二十六日~二十八日、大阪大学)における筆者の論文発表「上博五『季康子問於孔子』の編聯と構成」をもとに研究会での討議を踏まえて作成し、筆者の勤務する島根大学教育学部に留学中の河南理工大学の王志軍先生に翻訳していただいたものである。

内容は、最新刊の『上海博物館蔵戦国楚竹書(五)』(以下『上博(五)』と略記)において公表された『季康子問於孔子』の竹簡の編聯復原をテーマとし、その意図は以下の二つにまとめられる。

  1. 三月七日に武漢大学簡帛研究中心「簡帛」インターネットに発表した拙稿「上博四『内礼』附簡・上博五『季康子問於孔子』第十六簡的帰属問題」において、『内礼』附簡は『季康子問於孔子』に属し、『季康子問於孔子』簡16が『昔者君老』簡2に下接することを指摘したのを踏まえ、あらたな分篇にもとづく『季康子問於孔子』の編聯復原を試みること。
  2. すでに先行研究によって提示されている部分的な編聯について検討を加えるとともに、いまだ取り上げられていない残簡をも含めた全簡におよぶ編聯案を提示し、『季康子問於孔子』の全体構成について素描を試みること。

発表の概要は以下の通りである。

上博五『季康子問於孔子』は、残存簡から知られる断片的な内容を総合すると、民の統治にかかわる季康子と孔子との政治問答と推定される。本論文では、『季康子問於孔子』の竹簡のうち、『昔者君老』簡2に下接する簡16を除き、新たに帰属が明らかとなった『内礼』附簡を加えた現存二十八簡にもとづき、編聯と構成について検討を加えた。その結果、現存竹簡は以下の四組に区分され、『季康子問於孔子』の全体は基本的に、第一組→第二組→第三組→第四組の順に展開する構成であったと推定される。

  • 第一組:1+2+3+4
  • 第二組:6+7
  • 第三組:8…21+22A+13+14+15A+9+10A+10B+19+20・11A+18B・22B
  • 第四組:11B+18A+5…12…15B…附簡…17+23

竹簡の缺失により把握し難い点が少なくないが、これによれば『季康子問於孔子』の内容は、はじめに、季康子が提起した統治者として君子がなすべき重要な任務をめぐって、孔子が徳治の重要性を述べ、次に、季康子が提起した葛て今の強権統治について、孔子がその弊害を挙げて寛政の必要性を説き、最後に疏導を願う季康子に対して、孔子が邦を平和にし民に親睦をもたらす方策を挙げて、統治者としての君子のあり方を示す、という流れであったと推測される。

なお、論文の詳細については本号掲載の拙稿「上博楚簡『季康子問於孔子』の編聯と構成」をご参照いただきたい。

発表に対する質疑応答

写真4 研究発表:福田哲之(左)、通訳:崔美英(右)

写真4 研究発表:福田哲之(左)、通訳:崔美英(右)

今回の研討会で『季康子問於孔子』の専論は筆者の発表のみであったが、筆者の発表に対して、武漢大学の陳偉氏から質問をいただくことができた。

質問の内容は、筆者が簡1にみえる「肥、從有司之後、不知民務之焉在」の「」字を「抑」の義に釈したのに対し、前日に発表された台湾中央研究院歴史語言研究所の林素清氏が提出論文「読上博楚竹書(五)札記両則」のなかで、「まったく」という意味をもつ「一」に釈するのが妥当であるとの見解を示されたことについて、筆者の意見を求めるものであった。

「抑」は『上博(五)』(整理者は濮茅左氏)の釈読であり、これに対して「一」に釈する説は、季旭昇「上博五芻議(上)」(簡帛網二〇〇六年二月十八日)において最初に提起された。筆者も釈読にあたって季氏の見解を参照していたが、その時点では両説のいずれが妥当かについて明確な判断がつかなかったため、取り敢えず原釈文にしたがったという経緯があった。

林素清氏の論文は、季旭昇氏の説に加えて、郭店楚簡『性自命出』簡16、郭店楚簡『緇衣』簡39、『荘子』大宗師、『晏子春秋』内篇諫上第九などの用例から「一」の妥当性を説く王貴元「上博五泝記二則」(簡帛網二〇〇六年三月三日)を引用し、「不知」が自らの愚昧・無知を強調する謙譲の言葉であり、『論語』顔淵篇の「顔淵曰く、回、不敏なりと雖も、請う斯の語を事とせん」や「仲弓曰く、雍、不敏なりと雖も、請う斯の語を事とせん」などと同様の性格をもつことを指摘する内容であった。

この点については、すでに前日の会議で林氏の発表論文に接し、出土資料と伝世文献資料との両面から「一」に釈すべきであることが諒解されたので、陳偉氏の質問に対しては林氏の見解に異論はなく、「抑」を「一」に修正する旨を回答した。

なお、会議終了後、武漢大学の何有祖氏から、個人的に次のような要望があった。それは、筆者が論文中に引用した牛新房「読上博(五)〈季康子問于孔子〉瑣議」(簡帛網二〇〇六年三月八日)の中にある「“疋”字、何有祖先生指出“是処当直接隷作‘疋’而読作‘疏’”、是指季康子要求孔子疏導自己」の部分について、簡11下の「疋」字を「疏」に釈読する見解はすでに季旭昇「上博五芻議(上)」が提起しているため、その部分を除外してほしいというものであった。

牛新房氏の引用は、注にも示されるように何有祖「上博五零釈(二)」(簡帛網二〇〇六年二月二十四日)によっている。何有祖氏はそのなかで、まず整理者の濮茅左氏が当該字を「足」に隷定し、そのまま「益」の意にとる説と「足」は「疋」と同じで「疏」に通ずるとする説との二説を提起し、季旭昇「上博五芻議(上)」が後説に賛意を表明して「足(疏)」と釈読した経緯を述べた後、「疏」の釈義にはしたがうべきであるが、字釈の面において補足する点があるとし、『弟子問』簡13の「足」字は当該字と大きく相違しており、『季康子問於孔子』簡19の「疋(疏)」と同形であることから、「疋」に隷定した上で「疏」の義に解すべきであることを指摘している。以上を図示すれば、以下のごとくである。

              ┌ 読為「益」
濮茅左説 当該字隷釈「足」─┤
              └ 同「疋」──  読為「疏」… 季旭昇作「足(疏)」
何有祖説 当該字隷釈「疋」──  読為「疏」

「足」と「疋」との字形は、上部に明瞭な相違があり、この点については郭店楚簡や包山楚簡などの多くの用例によって確認される。何氏が指摘するごとく、当該字は明らかに「疋」であり、「足」と隷釈しては誤りとなる。したがって、筆者には牛新房氏の引用にとくに問題はないのではないかと思われた。しかし、何氏はおそらく字義の点ですでに季旭昇氏が「疏」の釈読を支持しているので、その優先権を尊重するために敢えてそのような要望を出されたのであろうと判断し、牛新房氏の論文を引用した筆者の目的は主として簡11Bと簡18Aとの接続にかかわる前半部にあるため、何氏の引用に言及した後半部については除外しても差し支えない旨を回答した。

以上が、質問および要望とそれに対する回答の内容である。

上博楚簡の釈読・編聯研究とインターネット

今回の研討会への参加をとおして筆者が最も強く印象づけられたのは、もはやインターネットに公開される論文(以下便宜上、ネット論文と記す)を抜きに出土資料研究を語ることはできないという時代の趨勢であった。もっとも、こうした感想は、パソコンにオクテである筆者個人の事情が大きく反映しており、出土資料に携わるとくに若手の研究者が聞けば、何を今さらと微笑まれることであろう。

『会議論文集(上博簡巻)』に収録された四十九篇の論文のうち、最新刊の『上博(五)』所収文献に関するものが二十六篇と約半数を占め、そのうちの二十篇が文字の釈読や竹簡の編聯を主題とするものであった。上博楚簡に限らず、出土簡牘研究においてまず問題となるのは、資料理解の前提となる釈読・編聯であり、公表直後の『上博(五)』に関して、その問題に議論が集中するのは当然の現象と言えよう。ただし、大部分が断簡からなる上博楚簡については、釈読・編聯研究がとくに重要な位置を占めるという、固有の事情も大きく関わっている。そして、論文集に掲載されたこれらの論文はすべて、ネット論文により短期間のうちに蓄積された数多くの先行研究の上に成り立っているのである。

釈読・編聯にかかわるネット論文は、いわゆる札記の形式をもった比較的短いものが多い。日本においてはこのような札記類は、長大な論文に対して論文と称するのもおこがましい、一等価値の低いものと見なされがちである。しかし、出土資料の釈読・編聯に関しては、どんなに短文であっても有意義な見解であれば、迅速な共有が研究全体の進展に不可欠であり、インターネットはそれを可能にする恰好の発表媒体なのである。逆に、いかに長大な論文であっても、誤った釈読や編聯に基づく研究であれば、それは単なる砂上の楼閣に過ぎないことを、とくに出土資料研究においては十分に銘記しておく必要がある。

ネット上にはほぼ毎日何本かの論文が掲載されているが、あらたに資料が公表されると当然のことながら論文の集中化現象が起こる。参考までに『上博(五)』公表にともなうネット論文の発表状況を、武漢大学研究中心「簡帛」インターネットについてみてみよう。

『上博(五)』に関する論文は、二〇〇六年二月十八日から掲載されはじめた。当日のネット掲載論文は、以下の六本である(掲載順)。

[二月十八日掲載]
   陳偉「上博五《鬼神之明》篇初読」
   魯家亮「読上博楚竹書(五)札記二則」
   季旭昇「上博五芻議(上)」
   季旭昇「上博五芻議(下)」
   何有祖「上博五楚竹書《競建内之》札記五則」
   蘇建洲「初読《上博五》浅説」

 十八日に続いて十九日にも以下の六本が掲載され、二月中はだいたい毎日平均四~五本というペースが続いている。なお『上博(五)』に関する論文が出はじめた二月十八日以前は、十七日ゼロ、十六日二本、十五日一本という状況であった。

[二月十九日掲載]
   何有祖「上博五《鮑叔牙與隰朋之諫》試読」
   陳偉「上博五《三徳》初読」
   何有祖「《季庚子問于孔子》与《姑成家父》試読」
   李天虹「上博五《躬》・《鮑》篇校読四則」
   陳剣「談談《上博(五)》的竹簡分篇・并合与編聯問題」
   何有祖「上博五《君子為礼》試読」

ここで、二月から八月までの月別の『上博(五)』関係論文の掲載数の推移をまとめると、以下の通りである(論文題目による統計)。

2月
3月
4月
5月
6月
7月
8月
50
42
18
13

ちなみに、筆者が国内の中国書専門店から『上博(五)』を入手したのは二月二十七日であり、その時点で四十三本の『上博(五)』関係論文が「簡帛」ネット上に掲載されていた。

これらのネット論文の大部分は多かれ少なかれ『上博(五)』に対する修正という性格をもち、資料によっては竹簡の分篇や編聯自体に大幅な修正をせまる例もみられる。しかし、上博楚簡のように大部分が残簡からなる資料の場合、それはむしろ当然の現象であり、厖大な数に上る資料を整理し、ほぼ一年に一冊という驚嘆すべきペースで報告書を刊行し続けている故馬承源先生をはじめとする上海博物館関係者の努力と見識に対して、深甚なる敬意を表さなければならない。鮮明な図版とともに提供された原釈文にもとづき、世界中の研究者が英知を結集し、より妥当性の高い復原をめざして努力を重ねているという状況が、まさに上博楚簡研究の現在であり、それを支えるのがインターネットなのである。

研討会に話を戻そう。『会議論文集(上博簡巻)』の論文に引用されたネット論文のうち釈読において重要な位置を占めたのは、二月十八日掲載の季旭昇「上博五芻議(上)」「同(下)」である。この論文は『上博(五)』所収の八篇のうち最後の「鬼神之明・融司有成氏」を除く七篇について釈読を中心に検討を加えたものであり、ほぼ全篇を網羅するという点で、その後の釈読研究における一つの拠り所となっている。上述したごとく、筆者への質問に出た林素清氏の見解は、原釈「抑」に対する季旭昇氏の別釈「一」の妥当性を裏付けるものであり、何有祖氏の見解も「疏」を妥当とする季旭昇氏の釈義を批判的に継承したものである。研討会の提出論文や質疑応答が、ネット論文の蓄積の上に展開されているという状況は、筆者の発表に対するこうしたやりとりにも端的にあらわれている。

一方、編聯において重要な位置を占めたのは、二月十九日掲載の陳剣「談談《上博(五)》的竹簡分篇・并合与編聯問題」である。この論文は『上博(五)』所収の八篇のうち「姑成家父」「鬼神之明・融司有成氏」を除く六篇について、竹簡の分篇や残簡の并合・編聯を中心に検討を加えたものである。当然のことながら釈読についても重要な指摘が数多く含まれており、陳氏が提起した編聯によって、はじめて内容の把握が可能となった例も少なくない。筆者の提出論文も陳氏の見解に負うところが多く、他の論文のなかにも陳氏の見解にしたがうものが多見された。

こうした状況において、筆者が少しく疑問に感じたのは、武漢大学の徐少華氏が発表した「論《上博五・君子為礼》的編聯与文本結構」であった。この論文は『君子為礼』の編聯について、とくに孔子と子産・禹・舜との優劣に関する子羽と子貢との問答部分が、簡11……簡15+簡13+簡16+簡14……簡12の順に并合・編聯されることを中心に論じたものである。しかし、この見解はすでに上述した二月十九日掲載の陳剣氏の論文に提示されていた。しかも、徐氏はここに登場する子羽を『上博(五)』(整理者は張光裕氏)にしたがい孔門弟子の子羽(澹台滅明)と解しているが、これは陳剣氏が指摘するように鄭の行人子羽(公孫揮)に比定すべきであり、それによってはじめて子羽が子産を「吾が子産」とよぶ意味も明らかとなる(この点を含めて陳氏の見解の詳細については、本号掲載の拙稿「出土古文献復原における字体分析の意義」第三章参照)。また釈読についても、簡16と簡14とを并合して、

子治詩書【16】……□、非以己名、然則賢於禹也。
 與舜【14】

と釈するが、簡14の冒頭部分「非以己名」は前後の文意が通らず、その直前の簡15+簡13「禹治天下之川、□以爲己名」との対応から、陳氏のごとく原釈の「非」字を「亦」字に改釈して、

子治詩書、【16】亦以己名、然則賢於禹也。與舜【14】

と釈するのが妥当である。当該字が「非」字ではなく「亦」字であることは、字形面からも疑問の余地はない。

こうした状況は、徐少華氏が陳剣氏の論文を見ていなかったことを示すものであるが、不可解なことに徐氏の論文中には陳剣氏の論文と同じ二月十九日に掲載された何有祖氏の「上博五《君子為礼》試読」の引用が見られるのである。

先に示した二月・三月のネット論文の集中化が物語るように、地域を異にした多数の研究者が、同一資料を同時期に研究するという事態を余儀なくされるため、複数の研究者が同時期に同じ検討結果を得るという場合も考慮されよう。また、不注意によって先行研究の存在に気付かなかったということもあり得るかもしれない。しかし、いずれにしても『君子為礼』の編聯を中心テーマとする論文において、追記の形にせよ陳剣氏の論文に対する言及がまったくみえないことは、やはり不備と言わざるを得ないであろう。

ところで、インターネットを中心に蓄積されてきた原釈文に対する修正見解は、すでに厖大な数にのぼり、将来それらを踏まえて新たな『上海博物館蔵戦国楚竹書』が構想される必要がある。そうした見通しに立てば、データベースとしての「簡帛」インターネットの意義があらためて認識され、今後さらに武漢大学簡帛研究中心が上博楚簡研究の基幹のひとつとして重要な役割を果たしていくことが期待される。大量のネット論文の中から、取り上げるに足る見解を取捨選択し、異説を並記しながら最も妥当性の高い復原を提示するという作業は、言うは易く行うに難い大事業であるが、こうした研究の集約作業が上博楚簡研究において重要な位置を占める時期が、いずれ遠くない将来に訪れるであろう。武漢大学珞琲山荘を会場として、一堂に会した世界の新出楚簡研究者のなかに身を置きながら、しばし上博楚簡研究の将来に思いを馳せ、意義ある研究の蓄積に向けて微力を尽くす覚悟を新たにした。

(福田哲之)

報告3(竹田健二)

武漢大学における二つのシンポジウム

今回の「新出楚簡国際学術研討会」は、武漢大学で開催された、初めての楚簡研究の国際シンポジウムではない。『郭店楚墓竹簡』(文物出版社、一九九八年)刊行の翌年、一九九九年に郭店楚簡の国際シンポジウムが同じく武漢大学で開催されており、そこでの発表は『郭店楚簡国際学術研討会論文集』(二〇〇〇年五月、湖北人民出版社)にまとめられている。

もっとも、戦国楚簡研究会のメンバーは、この一九九九年のシンポジウムには一人も参加していない。筆者の見る所では、日本人研究者で両方のシンポジウムに参加したのは、谷中信一氏だけである。しかし、「大会開幕式」においてスピーチした「発言人」の多くは、一九九九年のシンポジウムに言及していた。今回のシンポジウムに参加した中国・台湾・香港・アメリカなどの研究者には、一九九九年のシンポジウムにも参加した人が多かったと思われる。

武漢大学は、一九九九年・二〇〇六年と、続けて楚簡研究の国際シンポジウムを開催したことにより、楚簡研究の国際的拠点の一つであることを、世界に向けて強くアピールし、その力を示したといえよう。

《采風曲目》の竹簡の形制

本シンポジウムにおいて筆者は、日本で既に発表済みの論文「『采風曲目』の竹簡の形制について」(『中国学の十字路 加地伸行博士古稀記念論集』〔研文出版、二〇〇六年四月〕所収)の全文を中国語に翻訳し、それを会議論文とした(注)。発表時間の制約のため、発表では専ら簡3の問題を取り上げ、竹簡の形制、特に契口の位置から見て、『采風曲目』の簡3と簡1・2b・4・6とは同一冊書に属する竹簡ではなく、別の冊書に属する竹簡であった可能性が高いと考えられることを中心に述べた。

質疑応答の際、武漢大学・荊州博物館の彭浩氏と南台科技大の季旭昇氏とから、簡5に関する見解を質された。筆者は、契口の位置から見て、簡5と簡3とは明らかに異なる冊書に属するが、簡5が簡1・2b・4・6と同一冊書に属する竹簡であるかどうかについては、今のところ断定するだけの材料が無い、と回答した。

表の際に言及しなかった点について若干補足するならば、『采風曲目』の整理者である故・馬承源氏は、簡5の竹簡の背面に文字が記されており、それは他篇に属するものであると、釈文の中で述べている。但し、その竹簡背面に記されている文字そのものは、残念ながら未だ公開されていない。簡5の問題については、そうした竹簡背面の文字に関しても検討を行った上で判断する必要があると筆者は考える。

店竹簡の背面に記された数字

本シンポジウムの中で、郭店楚簡や上博楚簡の竹簡の形制の問題を特に取り上げた発表は、筆者の発表以外には無かった。しかし、戦国期の竹簡資料の実態を考える上で、極めて興味深い発表があった。それは、荊門市博物館の劉祖信・鮑雲豊両氏による「郭店楚簡背面記数文字考」である。

本発表は、郭店竹簡の中に、竹簡の背面に数字が記されているものが複数存在することが確認された、との報告である。
発表によれば、その竹簡は『尊徳義』の簡11・12・15・28、及び『成之聞之』の簡13の合計五枚である。それぞれ「百八」・「百四」・「百一」・「百」(或いは「首」)・「七十二」と記されていた。背面に数字が記されている竹簡の存在が確認されたのは、『郭店楚墓竹簡』の刊行後のことであるという。

これら竹簡背面の数字は、『尊徳義』・『成之聞之』の内容を記している竹簡正面の文字列とは、文字の向きが上下逆である。すなわち、竹簡の正面と背面との文字は、竹簡を縦、つまり天地を逆にして裏返したところに記した形になっているのである。

写真5 研究発表:竹田健二(右)、 司会:湯浅邦弘(左)、通訳:崔英(中央)

写真5 研究発表:竹田健二(右)、 司会:湯浅邦弘(左)、通訳:崔英(中央)

竹簡背面の上端から、数字が記されている箇所までの距離は、『成之聞之』簡13が一七・五センチメートル、他の『尊徳義』の四本はすべて一四・五センチメートルであった。五枚の竹簡は、いずれも簡長が三二・五センチメートル、簡端は梯形で、編綫は両道、竹簡の形制は同一である。劉祖信・鮑雲豊両氏は、この数字の書写者は同一人物である可能性が高いとしている。

なお、本発表の会議論文に竹簡の背面の数字の図版は付されていなかったが、シンポジウムの会場では、二点のコピー(白黒)が回覧された。そのうちの一点は、おそらくは原寸大の、五本の竹簡の背面全体を写した写真のコピーであり、もう一点は、数字の記されていた部分だけを拡大した写真のコピーであった。

問題は、これら竹簡の背面に記されていた数字が果たして何を意味するものなのか、という点である。劉祖信・鮑雲豊両氏は、竹簡の数なのか、文字の数なのか、現時点でははっきりしないとしながらも、竹簡の排列順序を示すものであった可能性を指摘している。
劉祖信・鮑雲豊両氏が可能性を指摘しているように、この竹簡背面の数字が仮に竹簡の排列順序を示すもの、所謂ノンブルのようなものであったとするならば、竹簡の排列を修正することにつながる可能性がある。もちろん、そうではない可能性もなお十分考えられる。文字の記された七二〇本余りの郭店楚簡の中で、なぜこの五本の竹簡の背面だけに記されているのかという点にも注目すべきであろう。今後、この竹簡の背面に記された数字の意味に関して、様々な研究が行われるものと予測される。

竹簡に関する詳細な情報の重要性

 劉祖信・鮑雲豊両氏によれば、出土後の整理・釈読作業は、竹簡の保護を目的とする国家的規定と当時の状況のため、基本的には竹簡そのものを直接見ながら行うことができず、洗浄・保存処理の後で作成された模本や写真に基づいて行われた。模本や写真にはっきりしない箇所があった場合についてのみ、竹簡そのものを直接確認したようだ。竹簡背面の数字の発見・確認が、『郭店楚墓竹簡』の刊行後時間が経過してからになったのは、そうした出土直後の整理・釈読作業の進め方が大きく影響したのである。

率直に言って、出土後十年以上も経過しているにも関わらず、郭店楚簡の竹簡背面の文字がこれまで見落とされていたということに、筆者は大いに驚いた。出土した竹簡資料の内容に対する関心の高さが先行するあまり、竹簡の全体的な情況の把握がおろそかになっていたとするならば、甚だ遺憾である。竹簡の背面や、或いは筆者が注目している契口の情況など、竹簡そのものに関する詳細な情報は、竹簡の排列の復元や、或いは竹簡の綴合の問題などを考える上で貴重な手がかりとなる可能性があり、見過ごすことはできないからである。

上博楚簡の場合は、竹簡の情況がカラーの拡大写真によって公開されており、郭店楚簡と較べて、竹簡の情況について或る程度詳しく把握することができる。竹簡背面についても、特に篇題が記されている竹簡の背面については、写真も含めた情報が伝えられている。しかしながら、竹簡背面に関する詳細な情報がすべて公開されている訳ではない。先述した通り、『采風曲目』簡5の背面の文字は、未公開のままである。

今後、出土した竹簡の情況に関しては、竹簡の正面・背面を問わず、すべてについて可能な限り詳細な情報が把握されること、そしてそれが広く公開されることを期待したい。

注…本論文中、「六 『采風曲目』の編綫の問題」八十一頁一〇行目には、筆者の校正ミスによる誤植がある。ここに謹んで修正する。

誤 従って、簡3は三道であった可能性はほとんど無いであろう。

正 従って、三道であった可能性はほとんど無いであろう。

(竹田健二)

報告4(浅野裕一)

発表の概要と質疑応答

筆者は『上海博物館蔵戦国楚竹書』第五分冊が収録する『鬼神之明』を取り上げて発表した。参加の招請を受けて最初に登録したタイトルは「上博楚簡《鬼神之明》與《墨子》説話類」であったが、実際に論文を執筆した段階で、「上博楚簡《鬼神之明》與《墨子》明鬼論」に変更した。

『鬼神之明』は、鬼神には明察な場合と不明な場合があるとする内容で、その文体や内容から、墨家に関する文献だと推定される。郭店楚簡や上博楚簡の文献を、『漢書』芸文志のスタイルで学派別に分類すると、圧倒的に多いのは儒家系の著作で、次いで『老子』『太一生水』『恆先』などの道家系の著作が続き、その他『曹沫之陳』のような兵家の著作が若干含まれるといった状況となっている。もとより『昭王毀室』『昭王與?之宣』『柬大王泊旱』など、楚で著作された歴史物語や、晋で作られた三郤をめぐる歴史物語である『姑成家父』のように、特定の学派には分類しがたい文献も多い。

郭店楚簡も上博楚簡も戦国中期(前三四二~前二八二年)の後半、前三〇〇年頃に造営された楚墓に副葬されていた写本である。写本が作られた時期は墓の造営時期を遡るし、原著の成立は写本が作られた時期よりもさらに遡る。したがってそれは、斉の威王(在位:前三五八~前三二〇年)や宣王(在位:前三一九~前三〇一年)の治世に、斉の都・臨?で活動した稷下の学士たちの時代よりも前の時代、すなわち春秋後期(前五二六~前四〇四年)から戦国前期(前四〇三~前三四三年)にかけてすでに成立していた文献なのである。したがって郭店楚簡や上博楚簡の中に稷下の学士たちの著作が入ることは不可能で、現にそうした文献は含まれていない。

諸子百家の中、儒家・道家・兵家の文献しか出土しない状況は、そうした時代性の反映と考えられるが、筆者がかねがね不思議に感じていたのは、戦国楚簡中に墨家の文献が見当たらない点であった。墨家は孔子学団の形成よりは遅れるものの、春秋末、前四五〇年頃にはすでに活動を開始しているから、戦国中期の写本である郭店楚簡や上博楚簡の中には、墨家の著作が含まれていて当然だからである。

そこに今回『鬼神之明』が登場したわけで、やっと現れたか待っていたぞとばかりに、早速取り上げた次第である。筆者の発表の概要は、中国語に翻訳して武漢大学に送ったのだが、次にその日本語版を掲げて筆者の発表内容の紹介としたい。

上博楚簡『鬼神之明』と『墨子』明鬼論

上博楚簡『鬼神之明』は、『墨子』の佚文と見られる。郭店楚簡や上博楚簡などの戦国楚簡から、墨家に関する文献が出てきたのはこれが初めてである。そこで小論では、『鬼神之明』の発見が墨家思想の研究にどのような影響を与えるのかを考察してみたい。

『鬼神之明』には直接墨子の名称は見えない。それにもかかわらず、『鬼神之明』を墨家の文献と見なせるであろうか。『鬼神之明』の文章には、『墨子』と酷似した表現が存在する。1)堯・舜・禹・湯もしくは、禹・湯・文・武や堯・舜・禹・湯・文・武と桀・紂・幽・厲を対比する構図、2)天子の地位の獲得と後世にまで至る名声の獲得を上天や鬼神の賞とする点、3)宗廟・社稷の断絶と末代までの汚名を上天や鬼神の罰とする点の三点にわたって、『墨子』と『鬼神之明』は強い共通性を示している。こうした共通性から、『鬼神之明』を墨家の著作と見なすことには全く問題がないと考えられる。また鬼神が明か不明かといった議論を展開するのは、先秦においては墨家のみであるから、やはりこの点からも、『鬼神之明』は間違いなく墨家の文献だと判断できる。

『鬼神之明』が墨家の文献であったことは確実である。だが『墨子』には、(1)親士以下七篇、(2)尚賢上篇以下十論二十三篇、(3)非儒下篇、(4)経上篇以下墨弁六篇、(5)耕柱篇以下説話類五篇、(6)備城門篇以下守城法十一篇など、形式や性格を異にする多様な諸篇が収録されている。『鬼神之明』は、上記の分類中のどれに属する文献なのであろうか。鬼神が明か不明かを論ずる内容からすれば、真っ先に思い浮かぶのは、『鬼神之明』が失われていた明鬼上篇か明鬼中篇の一部だった可能性であろう。本節では『墨子』中の諸篇との比較によって、そうした推測が妥当かどうかを考えてみたい。

説話類の中には、鬼神が明であるか不明であるかを議論するものがある。また1)2)3)の特徴的な文体も存在している。したがって『鬼神之明』も、説話類に属する文献の一部だった可能性がある。

写真6 開会スピーチ:浅野裕一(左から二番目)、<br />右端は李学勤教授

写真6 開会スピーチ:浅野裕一(左から二番目)、<br />右端は李学勤教授

もう一つの可能性としては、現行の『墨子』の先頭に置かれている、親士・修身・所染・法儀・七患・辞過・三弁などの諸篇と同類の文献の一部だったことが考えられる。法儀篇や所染篇にも、1)2)3)の特徴的な文体が存在している。また『鬼神之明』は問答体で構成されていたと推定されるが、三弁篇も「程繁問於子墨子曰」と、非楽論の是非をめぐる墨子と程繁の問答体で構成されている。したがって、明鬼論の是非をめぐる問答体で著述されている『鬼神之明』が、(1)の親士以下七篇と同様の性格を持つ文献だった可能性が残る。

第三の可能性としては、『鬼神之明』が亡佚していた明鬼上篇か明鬼中篇の一部だった可能性が挙げられる。 ただし『鬼神之明』を明鬼上篇もしくは明鬼中篇の佚文だったとする推定には、疑問点も存在する。現存する十論の諸篇では、学団外の論敵との論争が展開されており、説話類に頻出するような学団内の門人との問答は全く含まれない。『鬼神之明』の「汝」は、学団外の論敵を指すとは思われず、門人を指す可能性が高い。この点を重視すれば『鬼神之明』は、明鬼上篇や明鬼中篇の一部であるよりは、むしろ明鬼論を主題とする説話類の佚文か、親士以下七篇と同様の篇の佚文だった可能性の側が高いであろう。

以上の考察によって、『鬼神之明』は説話類の佚文か親士以下七篇と同様の篇の佚文である可能性が最も高く、前二者に較べると可能性は若干低いものの、明鬼上篇もしくは明鬼中篇の一部だった可能性も残るとの結論を得た。上博楚簡は戦国中期(前三四二~前二八二年)、前三〇〇年頃の写本と推定されている。故に『鬼神之明』の発見は、それが何の文献の一部だったかはともかく、戦国前期(前四〇三~前三四三年)には明鬼論が確実に成立していた証左となる。このことが、墨家思想の研究にどのような影響を与えるかを次に検討してみる。

墨家思想に関する論考を数多く著した渡辺卓氏は、兼愛・非攻・尚賢は弱者支持の立場を取った初期墨家が唱えた主張、節用・節葬・非楽は領域国家の富国強兵策を支持した中期墨家が唱えた主張、尚同・天志・明鬼・非命は大帝国による統一を支持した後期墨家が唱えた主張だとした上で、明鬼論は秦帝国による統一直前に後期墨家によって唱えられた主張であり、明鬼下篇は秦帝国成立前後から秦帝国の盛期にかけて著作されたとする。

渡辺氏は、尚同・天志・明鬼・非命を大帝国への理論提供を策した一連の思想と捉えた上で、明鬼論を秦の統一事業に協力した秦国内の墨者が、秦帝国成立直前に提唱した思想だと理解したのである。だが今回の上博楚簡『鬼神之明』の発見によって、渡辺説が全く成り立たないことが明白となった。

『鬼神之明』を含む上博楚簡は、盗掘品であるため正確な出土地点は不明で、副葬された時期もはっきりしない。そこで中国科学院上海原子核研究所で炭素14を用いた年代測定が行われた。その測定結果は二二五七±六五年で、一九五〇年が国際定点であるから、上博楚簡は前三〇八±六五年、つまり前三七三年から前二四三年の間の書写となる。

また『上海博物館蔵戦国楚竹書』第一分冊「前言」は、副葬時期について、竹簡や字体の分析、郭店楚簡との比較から、楚が秦の攻撃を受けて郢から陳に遷都する前二七八年以前と推定している。したがって上博楚簡の書写年代は、前三七三年から前二七八年の間となる。とすれば、原著の成立時期は当然写本の書写年代をかなり遡るから、 『鬼神之明』は遅くも戦国前期にはすでに成立していたと見なければならない。

したがって墨家が明鬼論を提唱した意図を、秦帝国による統一事業の推進に求めることは、全く不可能となる。と同時に、尚同・天志・明鬼・非命を大帝国への理論提供を策した一連の思想とする見解もまた、根底から覆される。戦国前期の墨家が、一五〇年も後の秦帝国の樹立を予見し、それに協力するための理論を予め用意するなどということは、物理的にあり得ないからである。

『鬼神之明』の発見によって、兼愛・非攻・尚賢は弱者支持の立場を取った初期墨家が唱えた主張、節用・節葬・非楽は領域国家の富国強兵策を支持した中期墨家が唱えた主張、尚同・天志・明鬼・非命は大帝国による統一を支持した後期墨家が唱えた主張だとする渡辺説は、もはやその全体が完全に破綻したとしなければならない。

十論はすでに墨子の時代にすべて成立していたと考えられる。その最も直接的な証拠は、魯問篇の記述である。魯問篇には十論すべてが出揃っている。 耕柱・貴義・公孟・魯問の四篇はすべて墨子の言行録で、その時代性や地域性など、説話類の内容を仔細に検討してみると、これらは間違いなく墨子の時代の記録である。そこに十論すべての名称が登場する以上、十論は墨子の時代にすでに形成されていたと見なければならない。

『鬼神之明』の発見によって、その中の明鬼論が遅くも戦国前期にはすでに成立していたことが明確になった以上、十論は墨子の時代にすべて成立していたと考えられる。十論の主張の成立時期と十論三十篇の著作時期との間には多少の時期的ずれがあったとしても、『鬼神之明』の文体と十論の文体が酷似する現象は、その時期的ずれが極めて短いものだったことを示している。 『鬼神之明』により、1)堯・舜・禹・湯もしくは、禹・湯・文・武や堯・舜・禹・湯・文・武と桀・紂・幽・厲を対比する構図、2)天子の地位の獲得と後世にまで至る名声の獲得を上天や鬼神の賞とする点、3)宗廟・社稷の断絶と末代までの汚名を上天や鬼神の罰とする点など、『墨子』に特徴的な文体が、すでに戦国前期には確立していたことが判明したからである。したがって現存する十論二十三篇の著作時期は、墨子が活動した春秋末から戦国前期にかけての時期と考えるべきである。

また上記1)2)3)の特徴的文体が、十論のみならず説話類や親士以下七篇にも共通して見られる現象は、説話類や親士以下七篇も、墨子が活動した春秋末から戦国前期にかけての時期にすでに成立していた可能性を示唆する。今後の墨家思想の研究は、こうした新たな知見を充分に踏まえながら行う必要があろう。

質疑応答

筆者の発表に対しては、北京師範大学史学研究所の李鋭氏から次のような質問が出された。発表者は、『鬼神之明』の思想分析よりも、『墨子』中のどの部門に属するかといった問題に議論を集中するが、それはなぜか、それよりも思想内容の分析を行うべきではないのかと。この質問に対して筆者は、『鬼神之明』の思想内容は、伝世の『墨子』が伝える墨家思想の枠内に充分収まっており、取り立てて新奇な要素を含んではいないと判断したので、文献の帰属を中心に考察したのだと回答した。

また山東大学文史哲学院博士研究生の西山尚志氏からは、発表者は「女以此詰之」の「女」を「汝」に隷定するが、この「女」は「如」に隷定すべきではないのかとの質問が出された。これに対して筆者は次のように答えた。「汝」に隷定すれば、『鬼神之明』は「吾」と「汝」の間の問答体となるが、「如」に隷定すれば、『鬼神之明』は「吾」一人の独白体となる、どちらがよいのかは、確たる証拠がないので、現段階ではいずれとも決しがたいと。

筆者の発表の後、武漢大学の丁四新氏が、「上博楚簡《鬼神》篇注釋與研究」と題する発表を行った。ただし発表時間を大幅に超過したため、ほとんど質疑が行われないままに終了した。

学会の感想

李鋭氏とは分科会終了後、精華大学に留学中の福田一也氏とともに、会場内に居残ってしばし懇談した。李鋭氏が上記のような質問を発したのには、次のような背景がある。彼は簡帛研究網站に「読上博五札記」と題する論文を発表していた。その中で彼は、以下のような見解を提示している。

いわゆる十論には、すべて上中下の三篇があって論旨が近似しており、墨家の主要な主張を述べている。ところが、明鬼論の中で唯一現存する明鬼下篇には、「鬼神有所明有所不明」とする議論は含まれていない。もし『鬼神之明』が亡佚した明鬼上篇か明鬼中篇の一部だったとすれば、とても人々を信服させられなかったであろう。

つまり、鬼神に不明な所があると自ら認めれば、鬼神の信賞必罰を説く明鬼論は説得力を失ってしまうとして、『鬼神之明』が亡佚した明鬼上篇か明鬼中篇の一部だった可能性に疑義を表明したのである。その上で李鋭氏は、次のような推測を展開する。

『論衡』福虚篇には、墨者の纏子が、秦の穆公の明徳を賞して上帝が十九年の寿命を賜与した例を引いて明鬼論を主張したのに対して、儒者の董無心が堯・舜も寿命を賜与されてはおらず、桀・紂も若死にしていない例を挙げて論駁したとの記述が見える。この董無心の主張こそ、『鬼神之明』が扱う「鬼神有所明有所不明」との議論と一致する。明鬼下篇にはこの董無心の批判への補充説明が見られないのに対して、『鬼神之明』は董無心の批判に対する補充説明になっている。したがって『鬼神之明』は、董無心の批判を承けて墨子の後学が著述した文献ではないのか。

このように李鋭氏は、「鬼神有所明有所不明」との主張を容認する『鬼神之明』の思想内容を、鬼神の信賞必罰を強調する墨家本来の明鬼論から相当離れた立場と理解したため、『鬼神之明』を墨家思想の後次的展開の所産とする見解を抱いたわけで、だからこそ『墨子』の枠内で『鬼神之明』の帰属問題を論じた筆者の発表に疑問を感じて、上記の質問を行ったのである。

懇談の中で李鋭氏は、浅野先生は今回の発表論文中に私の論文を引いているが、私の考えをどう思うかと意見を求めてきた。これに対して私は次のような意見を述べた。

あなたも認めるように『墨子』説話類の公孟篇や魯問篇の中には、鬼神が明か不明かをめぐる墨子と門人の議論が見える。またあなたは言及していないが、明鬼下篇には無鬼論を半ば容認する発言まで存在する。だから『墨子』の中には、鬼神の信賞必罰を強調する論調から、鬼神が明か不明かをめぐる議論や、無鬼論を半ば容認する発言まで、幅広い論調がすでに含まれている。したがってこうした差異を、ただちに時代的差異に結びつける理解には、私は懐疑的である。

なおかつ『論衡』福虚篇が記す纏子と董無心の問答(王充『論衡』の記述は、恐らく『漢書』芸文志・諸子略・儒家が著録する「董子一篇」に基づくものであろう)がいつの時代に行われたのかは、皆目不明である。炭素14を用いた年代測定の結果などから、『鬼神之明』は戦国前期にはすでに成立していたと考えられるが、もしそこに纏子と董無心の問答を踏まえた補充説明が見られるとすれば、両者の問答は春秋末から戦国初頭の間に行われたとしなければならない。だがそうした立証は今のところ不可能であろう。 鬼神が明か不明かをめぐる墨子と門人の議論が『墨子』の中にすでに存在する以上、わざわざ論証不可能な論拠を持ち出す必然性はないのではないか。

以上の私の返答に対し、李鋭氏は炭素14の測定法について質問してきた。その内容は、浅野先生は一九五〇年を起点に計算しているが、それはなぜかというものであった。私がそれは一九五〇年が国際定点だからだと答えると、彼は怪訝な表情で、それは誰が決めたのかと聞いてきた。私はそれが国際協定によって決められたことを説明したが、李鋭氏にはどうも納得がいかないようであった。

懇談はここで時間切れとなり、我々は別の会場へと移動した。同席していた福田一也氏は、中国の学者は炭素14を用いた年代測定法の仕組みについてほとんど理解しておらず、戦国楚簡の時代を自在に上げ下げできるといまだに思っているとの感想を述べた。私も全く同様の印象を受けた。

丁四新氏は、口頭での発表とは別に、「論楚簡《鬼神》篇的鬼神観及其學派帰属」と題する論文を会議論文集に提出したが、彼もまた『鬼神之明』の思想内容を、鬼神の信賞必罰を強調する墨家本来の明鬼論から大きく逸脱した立場と理解した上で、以下のような見解を提示した。

『墨子』公孟篇は、「公孟子曰、無鬼神」とか「儒以天爲不明、以鬼神爲不神」などと、儒家が無鬼論を説いたと記述するが、『孟子』にそうした思想はなく、『荀子』天論篇の主張が最もそれに適合する。したがって『墨子』公孟篇は、荀子より若干前かほぼ同時期に著作された墨家の文献である。そして鬼神には不明な所があると認める『鬼神之明』の立場は、墨子の教説から背離した完全な異端であり、その成立年代は『墨子』公孟篇と同時期である可能性が最も高い。

この丁四新氏の見解が正しいとすれば、『鬼神之明』は荀子とほぼ同時期、戦国後期(前二八一~前二二一年)に著作されたことになる。もし戦国後期に『鬼神之明』の原著が成立したのであれば、転写を重ねて世間に流布した後、その一本を墓主が入手し、その後死亡して墓に副葬されたのであるから、上博楚簡が盗掘された墓の造営時期は、秦帝国の時代か漢帝国成立後とならざるを得ない。竹簡の書写年代は墓の造営時期を遡るのだが、その書写年代はどんなに早くても戦国最末、前二三〇年頃となろう。しかしてそれは、前三〇八±六五年、つまり前三七三年から前二四三年の間の書写とする炭素14を用いた年代測定の結果とは、全く相容れないのである。

また上博楚簡は、竹簡に付着していた土壌の分析によって、郭店一号楚墓がある湖北省江陵の墓陵地から盗掘されたと見られており、秦の攻撃を受けて楚が郢から陳に遷都する前二七八年以前に副葬されたと考えられる。 丁四新氏の所説は、こうした考古学的知見とも全く相容れない。

今回の学会で発表された論文は多数に上るが、上述の考古学的知見を踏まえた研究は、我々戦国楚簡研究会のメンバーや福田一也氏のものを除くと、ほとんど見かけなかった。まさしく戦国楚簡の年代を自在に上げ下げ(と言っても、実際には引き下げる方向のみなのだが)できる状況なのである。

この点は、筆者が質問を行なった、徐少華氏の「論《上博五・君子爲禮》的編聯與本文結構」に関しても同様である。徐少華氏は、子貢が行人子羽に向かい、孔子は鄭の子産・禹・舜よりも賢であると語る『君子為礼』の内容(ただし徐少華氏は、舜は孔子と同等に賢だとされていると推定している)を、各学派の対立が激化した戦国中晩期の状況を反映した産物だと結論づける。

もし『君子為礼』の原著が戦国中晩期の状況を承けて著作されたのであれば、上博楚簡『君子為礼』の書写年代は、どんなに早くても戦国最末以降となろう。とすればやはり徐少華氏の所説も、上述した考古学的知見とは全く相容れないこととなる。

日本の学界には、欧米の学者が要求しても炭素測定法にかけないから(実際は測定値が出ている)郭店楚簡の年代は信用できないと言ったかと思えば、今度は詭弁を弄して炭素測定法の有効性を否定してみたり、前三〇〇年説を突破して年代を引き下げるのが海外の大勢だと虚偽をまくし立てたかと思えば、たとえ前三〇〇年説が国際的大勢だとしても自分の信念は変わらないと開き直ってみたりと、滑稽なドタバタ喜劇を演じながら戦国楚簡の年代を意図的に引き下げようとする研究グループが存在し、郭店『老子』には荀子を踏まえた箇所があるなどといった珍説を、いまだに提出している。

先に紹介した中国の学者たちの研究姿勢は、これとは少しく趣を異にする。彼らは決してある魂胆に基づいて、意図的に引き下げようとしているのではなく、炭素14を用いた年代測定法を始めとする考古学的知見など、はなから意識にないのである。そこで結果的に彼らは、上博楚簡の各種文献が記す思想を自分なりに分析し、荀子と同時代の作品だとか、戦国中晩期の状況の産物だといった結論を、自在に導き出すのである。

以上紹介した事柄が、今回の学会に参加して筆者が受けた、最も強い印象である。新出楚簡の研究は、各国の研究者が寸刻を争って成果の発表を競う、最も白熱した分野となっている。したがって議論百出の百家争鳴状態は、学界盛況の証でもあるから、その限りでは喜ばしい。今後、新たな資料の発見や研究の進展に伴い、時のふるいに掛けられて、残るべきは残り、そうでないものは淘汰されて、しだいに共通理解の枠組みが形成されて行くと予想される。現在の状況は、その長い道のりのわずかな一コマに過ぎない。

(浅野裕一)

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