中国研究集刊 珠号(総五十九号)平成二十六年十二月 一三八~一五八頁
二、甘粛省博物館参観
九月三日午前、蘭州市西津西路三号にある甘粛省博物館を訪れた。甘粛省博物館は、一九三九年に創設された甘粛科学教育館をその前身とし、一九五〇年に西北人民科学館と改名された後、一九五六年、現在の甘粛省博物館へと改編された。約三十五万点もの収蔵物を有し、その中には国宝級の文物十六点が含まれているという。
展示物は「甘粛絲綢之路文明」「甘粛彩陶」「甘粛古生物化石」「甘粛仏教芸術」等、テーマ毎に展示室を分けて配置されており、彩陶や仏典・仏像、行政文書等、シルクロードの中継地および西北辺境の防塞要地として栄えた甘粛省ならではの特色ある文物を多く観覧することができた(注1)。
中でも、特に注目されたのは、簡牘資料の展示である。甘粛省博物館編・俄軍主編『甘粛省博物館文物精品図集』(三秦出版社、二〇〇八年十二月)によれば、甘粛出土の簡牘は総計六万枚以上にものぼり、漢字を始め、カローシュティー文字・吐蕃文字・ウイグル文字・西夏文字の五民族の文字文献が見られるという。また、その内容も政治・経済・軍事・文化・教育・交通・防衛・郵政等、多岐に渡ると指摘されている。実際、博物館では、「烏孫貴人伝舎制度簡」「西域使者計簿」「于闐王行道簡」等の歴史的背景や当時の様子を窺い知る上で重要な行政文書関連の木簡牘や、武威旱灘坡出土『医葯簡牘』、武威磨嘴子出土『儀礼』(以下、武威漢簡『儀礼』)、敦煌懸泉置出土『論語』(以下、懸泉置漢簡『論語』)等の木簡典籍の実物を閲覧することができた。とりわけ、中国古代思想を研究対象とする我々にとって、武威漢簡『儀礼』と懸泉置漢簡『論語』の木簡を実見することができたのは幸いであった。以下、両文献の概要を紹介し、その意義について若干の私見を述べてみたい。
(1)武威漢簡『儀礼』について
武威漢簡『儀礼』は、一九五九年、武威新華郷磨嘴子より発見された三十数基の漢墓の内、その第六号墓(王莾期と推定)から出土した木簡群である。簡長は約五十一~五十七㎝、幅は〇・五~〇・九㎝、総数は四六九簡。編綫の数や字体、各簡に記された文字数等から甲乙丙の三篇に分類されており(注2)、この訪問中に閲覧することができた木簡は、形制やその文献内容から、甲本の『儀礼』犠牲饋食礼であったと考えられる(注3)。木簡は試験管の中に各簡毎に保存され、脱水処理や真空処理は施されていないようであった。試験管は合計十簡分。五十㎝ほどの箱の中に整然と並べられて展示されていた。 武威漢簡『儀礼』については、後漢・鄭玄が注を施し、その後、現行の十三経に収められた『儀礼』(古文系テキスト)と一部異なる箇所があることが、先行研究においてすでに指摘されている(注4)。また、「経」と「記」との融合や独立性等、『儀礼』の成立に関する研究でも注目を集めている(注5)。郭店楚墓竹簡や上海博物館蔵戦国楚竹書にも「礼」に関する文献が多数含まれているが、それらの文献同様、武威漢簡『儀礼』は文字の変遷や経書の伝播・受容を辿る上で、貴重な一次資料であると言える。
(2)懸泉置漢簡『論語』について
懸泉置漢簡とは、敦煌にある漢代の懸泉置遺跡より出土した約二万三千枚の簡牘群を指す(注6)。郝樹声・張徳芳著『懸泉漢簡研究』によれば、紀年簡のうち、最も早いものは武帝元鼎六年(前一一一)、最も晩いものは後漢安帝永初元年(一〇七)であるという。また懸泉置漢簡には、『論語』子張篇の残文(木簡二簡)が含まれており、その内の一簡は簡長二十三㎝、幅〇・八㎝。もう一簡は、簡長十三㎝、幅〇・八㎝。いずれも松材を使用していたと指摘されている。今回の訪問時に展示されていた簡は、前者一簡(五十五字)のみであった。
実見した木簡は、ガラス板や試験管に入れられて保存されているというわけではなく、固定する紐や台紙も見られなかった。該当簡の内容と現行本『論語』の内容とを対照すれば、次のとおりである。なお、比較の便を考慮し、釈文は全て新字に改めた上、章毎に改行して掲載している。
懸泉置漢簡『論語』(注7) | 現行本『論語』子張(注8) |
(・・・・・・)乎張也、難与並而為仁矣」。 ●曾子曰「吾聞諸子、人未有自致也者、必也親喪乎」。 ●曾子曰「吾聞諸子、孟荘子之孝、其他可能也、其不改父之臣、与父之(・・・・・・) |
曾子曰「堂堂乎張也、難与並為仁矣」。 曾子曰「吾聞諸夫子、人未有自致者也、必也親喪乎」。 曾子曰「吾聞諸夫子、孟荘子之孝也、其他可能也、其不改父之臣、与父之政、是難能也」。 |
木簡に記述された内容は、墨点(「●」)により章毎に区切られていた。ここから、実見した一枚の木簡には、三章に跨がる内容が記載されていたことが窺える。現行本『論語』と比較すれば、木簡には「難与並」と「為仁矣」との間に「而」字が挿入されており、「諸夫子」の「夫」字や「孟荘子之孝也」の「也」字が脱落していることが分かる。また現行本における「者也」が「也者」と転倒して表記されている等、僅かな相違が認められた。
漢代の『論語』テキストとしては、すでに河北省定州市から定州簡『論語』、また北朝鮮平壌市から平壌簡『論語』が出土している。この懸泉置漢簡『論語』は、漢代において、東の辺境で発見された平壌簡『論語』同様、西北の地にも『論語』が広く流布していたことを示す重要な資料であると考えられる。武威漢簡『儀礼』に同じく、懸泉置漢簡『論語』も経典の流布・変遷や文字学研究を行う上で、不可欠な文献であると言えよう(西北地域における典籍(主に思想文献)については、甘粛省文物考古研究所・甘粛簡牘博物館での会談参照)。
今回の甘粛省博物館参観は、簡牘資料の実見が主たる目的であったが、敦煌市馬圏湾遺跡より出土した筆や、酒泉市金塔県より出土した肩水金関紙といった、前漢期の筆記用具をはじめとする考古文物を閲覧することができたことも収穫であった。
近年、発見され整理されている新出土文献には、出土地不明の盗掘簡や骨董簡が多いが、それに対して、甘粛省博物館に展示されている大部分の簡牘は出土地が明確である。これらの簡牘に上記のような同時出土の考古文物を組み合わせて検討することで、多様な民族文字や漢字の書体の変遷過程に加え、当該期の社会情勢や辺境生活の実態に関する新知見が得られる可能性が高まるであろう。これらは西北文化を考える上で重要な一次資料であると考えられる。
(中村(金城)未来)
注
(1)なお、甘粛省博物館のHP(http://www.gansumuseum.com/)には、館内の各展示室の様子を実際の順路に沿って味わうことができるデジタルコンテンツが公開されている。
(2)『甘粛省博物館文物精品図集』や、田中利明「儀礼の「記」の問題―武威漢簡をめぐって―」(『日本中国学会報』第十九集、一九六七年十一月)、横田恭三『中国古代簡牘のすべて』(二玄社、二〇一二年五月)によれば、筆記媒体には木簡・竹簡の両種が認められ、甲・乙本は木簡、丙本には竹簡が用いられているという。また甲・乙本は四道編綫であるのに対し、丙本は五道編綫。一簡あたりの字数は、甲・丙本が約六十字、乙本がその二倍の約百十字と指摘されている。各篇にはそれぞれ次の内容が見える。甲本=士相見之礼・服伝・特牲・少牢・有司・燕礼・泰射(以上七篇)、乙本=服伝(一篇)、丙本=喪服(一篇)。なお、甲本には、木簡の正面下部に排列番号が付されているものが多く含まれている。
(3)実見した木簡は、一簡あたり約六十字が記されており、四道編綫であったことが確認できた。また、木簡には「酒告旨主人拜尸奠」の記述が見え、ここからも、この文献が『儀礼』犠牲饋食礼の記された「甲本」であったと推定し得る。
(4)陳夢家「(四)簡本儀礼的本子及其年代」(『武威漢簡』序論第二章所収、文物出版社、一九六四年九月)。なお、上記書籍中、甲・乙本(木簡)は前漢晩期(成帝前後)の鈔本、丙本(竹簡)は甲・乙本よりも古い文献であろうと指摘されている。
(5)(注2)田中利明論文参照。
(6)なお、懸泉置の「置」については、『孟子』公孫丑上に「孔子曰、「徳之流行、速於置郵而伝命」とあり、その朱熹集注に「置、駅也。郵、馹也」とある。また、郝樹声・張徳芳著『懸泉漢簡研究』(甘粛文化出版社、二〇〇九年八月)は、漢簡の内容より、「置」を郵(郵便)、厩(馬の飼育)、伝舎(宿泊)、厨(食糧関連業務)等、多種の機能を備えた機関であったと指摘している。
(7)『懸泉漢簡研究』によれば、もう一つの木簡に記されていた内容は、次のとおりであるという。
〼□子張曰、執徳不弘、通道不篤、焉能為有、焉能為亡。
●子夏之門人問交於子張、子張曰
また同書十八頁には、典籍の残篇として「之祚責。悪衣謂之不肖、善衣謂之不適、士居固有不憂貧者乎。孔子曰、本子来」や「欲不可為、足軽財。彖曰、家必不属、奢大過度、後必窮辱責其身而食身、又不足」という内容が見られることも紹介されており、懸泉置漢簡中には、『論語』子張篇以外にも、孔子や儒家経典に関する文献が含まれていたことが窺える。
(8)阮元撰『十三経注疏』(芸文印書館、一九六五年六月)、朱熹撰『四書章句集注』(新編諸子集成、中華書局、一九八三年十月)、ともに文字に異同は見られない。ただし、「吾聞諸夫子人未有自致者也」について、阮元の校勘記に、「漢石経作吾聞諸子人未有自致也者」とある。