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甘粛省文物考古研究所・甘粛簡牘博物館での出土簡牘実見

甘粛省出土簡牘調査報告 INDEX

中国研究集刊 珠号(総五十九号)平成二十六年十二月 一三八~一五八頁

三、甘粛省文物考古研究所・甘粛簡牘博物館での出土簡牘実見

甘粛省文物考古研究所

甘粛省文物考古研究所

九月三日午後二時、我々は宿泊先のホテルから専用車で甘粛省文物考古研究所・甘粛簡牘博物館へと向かった。多少の渋滞はあったものの、約三十分ほどで目的地に到着。大通りから路地を一本入ったところに位置する研究所は、二年前に建てられたそうで比較的新しい。研究所の玄関で、我々は蘭州城市学院・簡牘研究所の孫占宇氏の出迎えを受けた。文物考古研究所の副研究員である楊眉氏の案内で、我々一行は地下の資料庫へと移動。室内には二台のテーブルが用意され、それぞれ六~十個ほどのトレーに納められた資料が我々を待ち受けていた。そして、孫氏・楊氏および同館館員の韓華氏の立ち会いのもと、早速資料の実見を開始した。我々は準備された資料を各々自由に参観しつつ、気になる点については各自が質問を行った。今回実見した簡牘資料は次の通り。(参考までにそれぞれ簡単な出土情報を記しておくが、もちろん我々が実見したのはその一部である。)

・ 居延新簡(漢代~西晋、一九七〇〇枚余り、一九七二~七四年出土)
・ 敦煌馬圏湾簡牘(前漢宣帝期~王莾期、簡牘一二一七枚、一九七九年出土)
・ 敦煌懸泉置漢簡(前漢武帝期~王莾期、簡牘二三〇〇〇枚余り、一九九〇~九二年出土)
・ 肩水金関漢簡(前漢武帝期から約二百年間、二万枚余り、一九三〇年代・七〇年代出土)
・ 天水放馬灘秦簡(戦国晩期(注9)、竹簡四六一枚、木版(古地図)七幅、一九八六年出土)

(1)居延新簡・馬圏湾簡牘

最初に実見したのは居延新簡である。木簡は一簡ずつ試験管に収められ、上下に綿を詰めて固定している。試験管内に溶液などは入っておらず、木簡を直に挿入した状態で保管されていた。字跡は明瞭で、一行のものや両行(二行)のものがあり、木目もはっきりと見える。後漢光武帝の「建武三年」(二七年)の紀年をもつ木簡は、行政関係の文書ではあるが、その文字の流麗さは観る者を魅了する。我々中国学関係の研究者のみならず、多くの書道家が見学に訪れるというのも頷ける。

敦煌馬圏湾簡牘の実見

敦煌馬圏湾簡牘の実見

続けて、「馬圏湾」と箱書きされた敦煌馬圏湾漢簡。王莾期の紀年を有する簡もあり、木簡の形状や筆跡も実に多様である。全体的には横長で角張った隷書体のものが多いが、中には草書体のようなさらさらと書写された簡もあり、人目を引く。孫氏によると、「これは正式な文書を作成する前の草稿のようなものかも知れない」とのことであった。これらの木簡中には、ナイフで切りつけたような跡が見えるものもある。そこで竹田健二が木簡背面の劃線(注10)の有無について質問したが、木簡にはそのような例は見られないという。また、馬圏湾からは竹簡十六枚も出土していることから、筆者(福田)が「竹簡はありますか」と尋ねてみたが、「あるにはあるが極めて少なく、またそれは南方からもたらされたものらしい」とのことであった。

(2)敦煌懸泉置漢簡・肩水金関漢簡

敦煌懸泉置漢簡の実見

敦煌懸泉置漢簡の実見

「縣泉置」の三文字が謹直且つ骨太の字体で書写されているのは、甘粛省博物館にも展示されていた敦煌懸泉置漢簡(甘粛省博物館参観参照)である。甘粛省博物館で当地より出土した『論語』の残簡(一簡)を参観していた我々は、早速、その総数について尋ねてみた。出土した『論語』は僅か二簡であり、いずれも今は展示中で倉庫にはないという。中国思想史を専門とする我々にとっては、もう一簡についてもぜひ実見しておきたかったが残念である。今回我々が目にした懸泉置漢簡のうち、一部はまだ写真も撮り終えていない未公開の木簡であった。そのトレーには大小様々な木簡が雑然と置かれており、一見してそれらの書写者が異なることがわかる。未公開の木簡まで実見できたのは大きな収穫だったが、これらの整理にはまだかなりの時間を要するように思われた。

このほか、懸泉置より同時に出土した毛筆などの出土文物についても、特別に見学を許可された。細筆が一本とハケ状の筆が一本。経年劣化のためか、筆先はかなり乱れている。さらに、筆入れのような木製の筒、木製の櫛、そして取っ手が亀の形に掘られた愛らしい木印もあった。
最後に実見した木簡は、一九七二年から一九七四年にかけて肩水金関から出土した漢簡である。一見して干支などが視認できる簡も多かったが、赤外線写真ではより鮮明に文字が見えるという。中には、「削衣」(修正などで木簡の表面を削った際の木片)も数点含まれており、これらは台紙に貼り付けて整理されていた。この中で一際目を引いたのは、木の棒を四面に削って文字を記した「觚(こ)」である。四面に文字が敷き詰められ、経年のために大きく湾曲したその形状は、何とも言えない異様な雰囲気を醸し出していた。今後、このように湾曲した木簡をどのように保存していくのかが課題の一つであるという。なお、肩水金関漢簡については、出版に関する作業はすでに終えており、これから保護作業を中心に行っていくとのことであった。

(3)天水放馬灘秦簡

天水放馬灘秦簡の実見

天水放馬灘秦簡の実見

木簡の海の中でふと時計を見ると、すでに一時間が経過していた。これまで博物館などで目にした木簡の総量を、おそらく今日一日で超えたことであろう。上海から飛行機や車を乗り継ぎ、五時間近くかけて当地を訪問した甲斐は十分にあったといえる。だが、筆者には何かまだやり残した感があった。それは竹簡の実見である。本研究会ではこれまで竹簡を中心に調査を行ってきたため、たとえ一簡でも甘粛省出土の竹簡を手に取ってみたいという思いがあった。甘粛省出土の簡牘はその大半が木簡であり、準備されていた資料も全て木製品であったので、今回、竹簡の実見は適わないかもしれないと筆者は感じていた。しかし、その思いを抑えきれず「竹簡はありませんか」と尋ねてみた。すると、「有」との回答。陳列される竹簡を前に、心は高鳴った。

今回実見した竹簡は、天水放馬灘秦簡の甲種・乙種各十二枚。竹簡は一枚一枚平板なアクリルケースに入れられており、各自手に取って見学することができた。内容は占いに関するもの(いわゆる「日書」)で、「新しい衣服をいつ着るか」、「外出に良い日時はいつか」など、日常生活における吉凶などが記されている。実見した竹簡はかなり細く、肉眼では判読不能な文字も多い。近年出版された張徳芳主編・孫占宇著『天水放馬灘秦簡集釈』(甘粛文化出版社、二〇一三年)のカラー図版のほうが遥かに鮮明である。背面も見てみたが、保存用の薄い紙が敷かれていてよく見えず、劃線の有無などは確認できなかった。ただし、表側(書写面)が上下二段に分段筆写されていることは確認でき、孫氏みずから三道編綫の跡を我々に示してくれた。また、竹簡を少し斜めから眺めると、その表面がきらきらと輝いていることに気づいた。この点を竹田健二が質問すると、「これは脱水処理後にできたもので、薬品の影響かも知れない」、また、「脱水処理後は竹簡の色が薄くなった」とのことであった。

ここで中村未来が、甲種に巻かれていたという布について質問を行った。孫氏は、「発掘報告には青い布に巻かれていた痕跡があったと記されているが、自分が見たときはすでに竹簡は試験管に入っており、布は見ていない」という。続けて、「わざわざ布に巻いて副葬されていたのは、甲種が乙種より正式な書と考えられていたためか」と質問すると、「甲種は乙種の一部しか採録していないので、乙種が早く成立したと推測される」との考えを示された。いずれにしても、これまで竹簡をこのように布で装丁する例はなく、非常に珍しいものであるという。

まだまだ質問は尽きず、もっと竹簡を見ていたいという思いもあったが、実見の開始からすでに一時間半が経とうとしていた。さらなる質問は場所を変えて行うこととし、我々は資料庫をあとにした。

(福田一也)


(9)天水放馬灘秦簡の書写年代については、多くの研究者が戦国晩期とするものの、一部に秦の統一後の書写とする見解もあり(海老根量介「放馬灘秦簡鈔写年代蠡測」、武漢大学簡帛研究中心主編『簡帛』第七輯、上海古籍出版社、二〇一二年十月)、定論をみるには至っていない。

(10)劃線とは、一部の竹簡の背面にみえる切り込み状の斜線。劃痕とも言う。竹簡の再排列を行う際に重要な指標となる。

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