二、上海博物館

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『中国新出簡牘学術調査報告 ─上海・武漢・長沙─ 』

二、上海博物館

二〇一二年八月二十八日、我々一行は上海博物館を訪問し、収蔵されている戦国時代の楚簡(以下、上博楚簡)の一部を実見した。

実見は、博物館の専門研究員である葛亮氏の立ち会いの下、竹簡の入ったガラス板(或いは厚いアクリル板か?)でできたケースを数個ずつ、順次入れ替えて行われた。ケースの中には、それぞれ十枚程度の竹簡が、白い台紙の上に緩やかに固定された状態で並べられている。ケースの中の竹簡の配列は、基本的に『上海博物館蔵戦国楚竹書』によって公表された時点のものである。

台紙があるために、竹簡の背面は見ることができないが、竹簡の背面に篇題など文字が記されている場合は、台紙が文字のある部分だけ切り取られている。ケースの裏側から、台紙の切り取られた部分を通して、竹簡背面の文字が見えるようになっているのである。もっとも、竹簡が台紙に固く固定されているわけではないため、竹簡背面の文字のある部分と台紙の切り取られた部分とがずれてしまい、文字を見ることができないこともある。今回実見した中では『命』の篇題がそうだった。

実見に際して我々は、あらかじめ準備した質問に加えて、実見中に気付いた点についても葛氏に質問した。葛氏はそれらに対していずれも丁寧に回答してくださった(写真参照。左手前の背中が葛亮氏)。葛氏との問答を含めて、筆者(竹田)に特に興味深く思われた点を以下にいくつか紹介する。

<p> 上海博物館における実見の様子。   左手前の背中の人物が葛亮氏。</p>

上海博物館における実見の様子。
左手前の背中の人物が葛亮氏。

まず第一に、今回の実見において、『凡物流形』乙本第一簡の背面に、「陰陽」という文字が記されているのを確認することができた。葛氏によれば、『凡物流形』の最初の整理者は李零氏であり、その李氏による最初の段階の整理では、この文献の篇題は「陰陽」とされていたのだが、後に整理者が交替して変更された、とのことである。

第七分冊に収められている『凡物流形』の最終的な整理者は、曹錦炎氏である。『凡物流形』甲本の第三簡背面に「凡物流形」の四文字が記されており、この四文字は第一簡冒頭の字句と一致している。曹氏は、文献全体の冒頭に位置する四文字が第三簡の背面に記されていると見なして、「凡物流形」を篇題とした。『上海博物館蔵戦国楚竹書』第七分冊には、「凡物流形」の四文字が記されている第三簡背面の写真も収録されている。しかし、乙本第一簡の背面に「陰陽」の二文字が記されていたことについては、曹氏の釈文においてはまったく言及がない。また、その写真も公表されていない。

葛氏によれば、『命』や『成王既邦』についても、当初は李零氏が整理を担当していたとのことである。上海博物館が上博楚簡を入手した一九九四年から今日まで、すでに二十年近く経過していることを思うと、整理者の交替自体はさほど驚くべきことではないと思われる。しかし、最初の整理者が竹簡背面の文字に気付き、しかもそれを一旦は篇題と見なしていたにもかかわらず、最終的な釈文においてそうした情報がまったく無視されているのは、整理全体として見た場合にやはり問題があるように思われた。

上海博物館における実見の様子

上海博物館における実見の様子

第二に、上海博物館の所蔵する戦国楚簡の背面の劃痕に関する情報である。劃痕とは、竹簡の背面に記されたひっかき傷状の斜線のことである。二〇〇九年に北京大学が収蔵した漢簡の背面にあるものを孫沛陽氏が発見したことをきっかけに、竹簡の配列を復元する手掛かりとして注目されている。

なお、竹簡の背面には、墨筆による斜線(墨線)が記されている場合もある。上博楚簡の中では、『命』の篇題(第十一簡背面)の上部にある右下がりの斜線などがこれに当たる。

上博楚簡の背面にも劃痕の存在するものがあるとの情報(北京大学出土文献研究所「北京大学蔵西漢竹書概説」〔『文物』二〇一一年第六期所収〕など)を踏まえて、葛氏に劃痕に関する情報を教えて欲しいと求めた。これに対して葛氏は、「劃痕の存在が分かった当初は、劃痕が竹簡の配列を復原する決め手になると思った。しかし、劃痕には連続したものもあれば、断裂したものもあり、反対方向のものもあれば、間隔のあるものもある。現在は劃痕の情況は非常に複雑であると考えている。上博楚簡の篇題のあるほとんどの竹簡においては、篇題の上、或いは下に、劃痕や墨線が認められる。清華大学の戦国簡や北京大学の漢簡の劃痕についての分析を踏まえると、上博楚簡の篇題のある竹簡には長い劃痕があるかもしれないが、詳しいことは分からない」と回答された。

前述の通り、現在上博楚簡は、台紙ごとケースに収められている。葛氏によると、今直ちにケースを開けて竹簡の背面の情況を確認することや、写真を撮影することはできない。上海博物館が戦国楚簡を入手した時点で、すべての竹簡の背面の写真を撮影したわけではないそうであるから、現在上博楚簡の竹簡でその背面の情況を確認することができるものは、基本的には竹簡の正面と背面との両面に文字がある竹簡だけである。先に述べたように、『凡物流形』乙本第一簡の背面に「陰陽」と記されていたことが従来公表されていなかったことも、上海博物館や整理者の多くが、竹簡の背面に関して十分には注意を払ってこなかったことを示すと思われる。
葛氏はそのことを認めた上で、『上海博物館蔵戦国楚竹書』に関する当初の出版計画がすべて完了した後には、改めて竹簡の現状の写真をすべて撮影したい、赤外線写真や赤外線スキャナーによる撮影も行いたい、但し、赤外線スキャナーは発熱がひどく、処理の際に高温になることを心配している、と発言された。
第三に、清華簡の背面に、竹簡の番号を示す数字が記されているものがあることに関連して、上博楚簡にもそうした竹簡があるかと質問したところ、葛氏は、そうした竹簡はない、と否定された。

但し、上博楚簡の中には、竹簡正面の右下に小さく「一二三四…」と順番に数字が記されているものがあるそうである。それは占卜関係の文献の竹簡で、その文献は第九分冊に収録される予定であるとのことであった。

これまで上博楚簡は、整理作業の進展とともに順次公開されてきた。しかし、上海博物館がこの戦国楚簡を入手してから今日までの間に、新たな出土資料も相次いで出現し、出土文献に関する研究は大いに進展した。また、赤外線スキャナーといった新たな機器を整理作業に導入することも進みつつある。

上博楚簡については、何よりもまずその全容が早く公開されることを期待したいが、その次の段階として、これまでの研究の蓄積を踏まえて上博楚簡全体を改めて見直す作業が必要であると痛感した。葛氏は、約二十年前に上博楚簡の処理を担った世代ではない。その葛氏も、自らの次の段階の仕事として、これまでの研究成果を全体的にまとめて整理することである、との認識を示されていた。

なお、葛氏によれば、現在第八分冊まで刊行されている『上海博物館蔵戦国楚竹書』は、今後さらに二冊、或いは三冊刊行され、その最後の一冊には断簡が含まれる可能性があるとのことである。上博楚簡ができるだけ早く、残簡も含めてすべて公開されることを強く希望したい。

実見後の記念撮影。前列右から二人目が葛亮氏。

実見後の記念撮影。前列右から二人目が葛亮氏。

最後に、本稿の目的からは逸脱するのであるが、『李頌』に関連して述べておきたいことがある。

筆者は、二〇一二年年五月二十五日に東京で開催された第四回日中学者中国古代史論壇において「上博楚簡『李頌』の文献的性格」と題する発表を行い、会議論文集に原稿を発表した。その中で筆者は、『李頌』の整理者である曹錦炎氏が、断裂した竹簡の上半部と下半部とを綴合して第一簡を整簡に復元していることについて、この綴合には問題があり、成り立たないと指摘した。その根拠は、『上海博物館蔵戦国楚竹書』の写真を見る限り、第一簡上半部の断裂箇所の鋸歯状に突き出ている部分の先端に、複数の黒い部分が存在することである。

筆者は写真に見えるその黒い部分は何らかの文字の痕跡である可能性が高いと推測したのであるが、発表の後、右の筆者の指摘は根拠が不十分であると判断するに至ったため、撤回する。

今回の実見で『李頌』第一簡を子細に観察したところ、第一簡上半部の断裂箇所に、文字の痕跡と見られるような黒い部分はほとんど認められなかった。実物と写真とが異なるように見えた理由については不明である。

(竹田健二)

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