- 一、学術調査の概要
- 二、上海博物館
- 三、武漢大学簡帛研究中心・長沙簡牘博物館
- 四、岳麓秦簡
- 五、湖南省文物考古研究所
五、湖南省文物考古研究
八月三十一日午前九時、湖南省文物考古研究所に到着し、張春龍先生の出迎えを受けた。張先生にお目にかかるのは、二〇〇六年九月に戦国楚簡研究会(当時)の中国湖南省長沙学術調査で同研究所を訪問し、里耶秦簡と慈利楚簡を実見させていただいて以来六年ぶりであった(『中国研究集刊』第四十一号〈二〇〇六年十二月〉所収「中国湖南省長沙学術調査報告」参照)。今回の訪問は、里耶秦簡の正式報告書の第一分冊にあたる『里耶秦簡〔壹〕』(二〇一二年一月)の刊行をうけて、新たな里耶秦簡の実見と学術情報の収集が主たる目的であったが、幸い同研究所が保管する郴州蘇仙橋三国呉簡もあわせて拝見させていただくことができた。
まず里耶秦簡から報告する。実見したのは九点で、編号と形態は以下の通りである。
- 7-1 木牘〈裏面〉
- 7-2 木牘〈表面〉
- 7-41 木簡
7-66 検 - 7-96 木簡
8-62 木牘〈表面〉 - 8-163 木牘〈表面〉
- 8-195(197)木牘〈表面〉
- 8- 284 楬
これらはいずれもガラス板に挟んだ状態で透明な袋のなかに入れられ、ガラス板の下部中央に手書きで編号が記されていた(写真1)。こうした保存方法について張先生は次のように説明してくださった。
里耶秦簡は出土後、脱水処理を施したが、脱水技術は優れていて、収縮や変形は生じていない。ここに並べてある閲覧用の簡牘は湿気を吸収して変形することを防ぐためにガラス板で挟み、透明な袋の中に入れて窒素ガスを充填している。袋の上部にある赤い錠剤は、窒素が袋から抜けて空気が入り込むと青色に変わる。そうなると窒素を入れ直さなければならない。奈良文化財研究所と交流があり、保存材料は三菱のものを使っている。
また各簡に付された編号は出土時の整理番号で、最初の7や8の数字は古井戸から出土した際の層位を示し、8の番号をもつ第八層出土の四簡はすでに『里耶秦簡〔壹〕』(文物出版社、二〇一二年一月)に収録されて公表済み、7の番号をもつ第七層出土の五簡は未公表とのことであった(『里耶秦簡〔壹〕』の「凡例」によれば第七層出土簡牘は第三輯に収録予定)。なお張先生はガラス板に手書きされた編号について、これは最初に記入されたもので最終的な報告書と一部合致していないものもあると付け加えられたが、帰国後にあらためて照合したところ、8-195の簡は『里耶秦簡〔壹〕』では8-197の編号が付されており、張先生が言われた編号調整の例であることが確認された。
さらに近年その存在が注目されている簡牘背面の劃痕・墨線については、里耶秦簡の大部分は行政文書でおおむね文章が短く、一枚の木牘が一件の文書であるため、そうした線は確認されていないとのことであった。
先に述べたように湖南省文物考古研究所での里耶秦簡の実見は二回目であり、前回は表裏に書写された公文書木牘が中心であったが、今回は同種の木牘とともに楬(文書楬)8-284や検(郵行文書)7-66、券書7-41・7-96など多様な木簡が展示されており、未公表の資料も含めて、選定にかかわるご配慮をありがたく感じた。
これら各種の木簡について張先生は、例えば「屋根型の形態をもつ木簡は帳簿で、真ん中で分割しているが完全には切り離さず、年月日・担当者・お金・食料の数などの記録にあわせて刻歯したのちに両面を分割する」などと木簡に見立てた紙を使って懇切に説明してくださった(写真2)。資料を実見しながら、楬や検などの用途にも話がおよび、木簡ならではの多様な形態と機能について理解を深めることができた。
次に郴州蘇仙橋三国呉簡(以下、郴州呉簡と略記)の報告に移ろう。実見したのは十一点で、編号は以下の通りである。
- V-61
- V-62
- V-63・104・118(綴合)
- V-64・69(綴合)
- V-66
- V-68
- V-80
- V-84
- V-90
- V-119・123(綴合)
- V-139
編号が並記されているのは複数の残簡の綴合であることを示し、冒頭のローマ数字Vは「呉簡」の略号。各簡はそれぞれの形に応じてくり抜かれた透明な板に挟んで密封され、下部中央に手書きで編号が記されていた。
はじめに張先生の説明を踏まえて概要をまとめておく。
郴州呉簡は、二〇〇三年に長沙市南四〇〇kmに位置する湖南省郴州市蘇仙橋一建設工地で発見された、
漢代から宋元時期までの十一座の古井戸のうちの四号古井(J4)より出土した一四〇点の木簡である。
なお同地の一〇号古井(J10)からは西晋木簡九四〇枚余も出土している。この郴州呉簡の全ての図版と釈文は、すでに湖南省文物考古研究所・郴州市文物処「湖南郴州蘇仙橋J4三国呉簡」(『出土文献研究』第七輯、二〇〇五年)に公表済みであり、さらに湖南省文物考古研究所・郴州市文物処「湖南郴州蘇仙橋遺址発掘簡報」(『湖南考古輯刊』第八集、二〇〇九年)には、段国慶氏による八点の綴合が示されている(今回実見した中の三点の綴合も含まれる)。
簡文に見える紀年は呉の孫権の赤烏二年(二三九)から赤烏六年(二四三)までの範囲に限られることから、年代は三世紀前半と推定され、内容は簿籍・書信・記事・習字などで構成されるが大部分は残簡もしくは削衣で、一部に焼け焦げた簡もみられることから、不用の残簡を井戸に廃棄したものと推測されている。
これらは言うまでもなく呉の孫権時期における社会状況をうかがう上での貴重な資料であるが、同時に書法史の面からも、生成期の楷書の実態を示す資料として重視される。一九九六年に湖南省長沙走馬楼から出土した走馬楼三国呉簡は、およそ十万点という豊富な資料を提供し、三世紀前半の筆記文字の実態がかなり詳細に明らかになってきている。中でも特記されるのは木簡の文字の一部に楷書の特色である起筆―送筆―収筆の三節構造が明瞭に認められ、楷書の発生時期が三世紀前半に溯ることが実証された点である。そして走馬楼三国呉簡とほぼ同時期の資料であるこの郴州呉簡にも明瞭な三節構造をもつ文字が含まれており、当時の筆記文字の実態把握がさらに進展することとなった。今回実見した木簡では、V-84の冒頭の「書」字の横画に三節構造が認められ、生成期の楷書の息づかいを詳細に観察することができた(写真3)。
なお一〇号古井(J10)から出土した西晋木簡については、前掲「湖南郴州蘇仙橋遺址発掘簡報」に五十一簡の図版が収録されているが、全容はなお未公表のようである。一方、東漢簡牘については、すでに報告書が刊行されている二〇〇四年出土の東牌楼東漢簡牘に加え、近年新たに長沙市内の地下鉄「五一広場駅」の工事現場から約一万枚に上る東漢期の紀年をもつ簡牘が出土し、現在整理が進行中である。これらの資料が公表されれば、漢代から三国時期を経て晋代に至る筆記文字の実態を、大量の同時代資料によって把握することが可能となり、書体変遷の過程がさらに具体的に解明されるであろう。
以上が湖南省文物考古研究所訪問の概要である。最後に張春龍先生をはじめとする同研究所のご高配と懇切なるご教示に対し、あらためて深甚なる謝意を表したい。
(福田哲之)