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紀山古墓群

中国荊門・荊州学術調査報告 INDEX

◆紀山古墓群(2005年8月31日午後1時半~午後5時半調査)

写真5 大薛家窪

写真5 大薛家窪

荊門市博物館の見学を終え、昼食をとった後、崔仁義先生の案内で紀山古墓群に向かった。紀山古墓群は、荊門市の南約50km、荊州の北約10kmの地点にあり、荊門と荊州を結ぶ「襄荊高速道路」の西側に位置する。総面積は約百平方キロメートルという広大な一帯である。墓群は現在、「白龍崗」「張家崗」「郭店崗」など二十四の墓地の名称によって整理されているが、今回我々が調査したのは、この内の「大薛家窪」「尖山」「郭店」の三箇所であった。
まず「大薛家窪」(写真5)は、一号墓・二号墓という比較的大きな主墓と、四行十列に排列された陪葬墓からなる。これらは現在、ともに雑木に覆われた小高い丘となっており、我々はやや息を切らしながら一号墓・二号墓および陪葬墓の一つに登った。この二号墓と陪葬墓の間には祭壇があり、またその東側には五段からなる台階も築かれていて、もとは人工的に整備された完成度の高い墓地であったとの印象を得た。崔先生の説明では、おそらく楚王の墓ではないかとのことであった。

 写真6 尖山墓地

写真6 尖山墓地

次に「尖山」墓地は(写真6)、現在農地となっている平地に、まさに突出した丘状を呈していた。「尖山」墓地は全体では百十二の墓群から構成されているとのことであったが、我々はその内、胡麻の苗が密集して植えられている高さ約6メートルの封土に登った。ここからは紀山古墓群の様子が良く眺められ、これらの墓群が日当たりの良い丘陵地に形成されている状況を実感することができた。丘状に見える盛り土は、すべて古墓の封土であり、その総数は確認されているものだけでも三百を超えるという。春秋戦国時代の楚の都「郢」の墓陵地として重要な場所だったのであろう。

最後に実見したのは、念願の郭店一号楚墓である(写真 7)。郭店一号楚墓は右の「大薛家窪」「尖山」の南東約四~五kmの地点に位置し、右の二つの墓地が今も小高い丘として封土を残しているのに対して、農家の裏の全く平坦な場所にあった。 これは、長年にわたって農民が耕作用に封土を削り取ったためであるとのことであった。それにより、古墓の存在が分かり、盗掘にあって郭店楚簡の発見に至った訳である。郭店一号楚墓は、1993年10月の発掘調査の後、土が埋め戻され、現在は、かつての墓坑の上に高さ約30cmのコンクリートの囲いが施されていた(写真 8)。

写真7 郭店一号楚墓

写真7 郭店一号楚墓

写真8 郭店一号楚墓のコンクリートの囲い

写真8 郭店一号楚墓のコンクリートの囲い

郭店一号楚墓は、墓坑の深さが約七メートル、墓坑・墓道の幅は約九メートル、墓棺は一棺。それほど大きな墓ではない。当時の礼制から推して、恐らく楚の「士」クラスの墓であったと考えられている。今は、このコンクリートの囲いによってその当時を偲ぶ他はない。
ここで我々が少し心を痛めたのは、紀山古墓群の保存や顕彰の状態である。「大薛家窪」には、付近の農家に小さなカメラ付きのアンテナが一本立てられていた。それは、盗掘を防ぐための監視用のアンテナであるとのことであったが、広大な紀山古墓群全体を監視するには不十分であるように感じた。また、「大薛家窪」「尖山」墓地への入り口が公道から比較的近いところにあるのに対して、郭店一号楚墓までは車一台がやっと通れる程の細い一本の農道が通っているのみであり、途中、案内表示などはまったくない。また墓は、うっそうとした雑木林に覆われていて、墓の東側に「郭店一号墓」という小さな墓標が立てられているのみであった。郭店楚簡の重要性に比して粗末な扱いのように感じられ、残念な印象が拭えなかった。

ちなみに紀山古墓群は、1996年に「国家級文物保護単位」に指定されている。

(湯浅邦弘)

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