紀南城址

中国荊門・荊州学術調査報告 INDEX

◆紀南城址(2005年9月1日午前10時半~12時調査)

(クリックで拡大)地図1

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9月1日、快晴。朝9時30分、チャーターしたマイクロバスに乗り込み、荊門のホテルを出発して高速道路を南下、紀南城に向かう。楚の都「郢」の城址である紀南城は、先秦史を勉強する身として、一度は訪れておかねばならない場所の一つである。

紀南城はかつての沙市、現在は荊州市の行政区域内に含まれており、江陵県城から北に約5キロメートルほど離れた場所に位置する(地図1)。付近には、西北の八嶺山や北の紀山に代表される楚の古墓群が無数に分布しており、包山楚簡が出土した荊門包山二号墓は北に約十五キロメートル、天星観一号墓は東に約20キロメートル離れた地にある。
 

(クリックで拡大)地図2

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紀南城遺跡は、1961年に国家重点文物保護単位に指定され、北壁と南壁にそれぞれ郭沫若の手になる「楚紀南故城」の石碑が建てられている。城壁は南北約3.5キロメートル、東西約4キロメートル、四隅がコーナーカットされたいびつな長方形を呈している(地図2)。南壁東部は南側に張り出して凸部を形成しており、凸部の西よりの部分には城壁の切れ目があって、南の大門の跡と考えられている。凸部の北側に位置する松柏区の西部には内城壁の跡が発見されており、さらに考古学的調査により、外城郭南門から北に向かって、大規模な建物の台基が連なっているのが確認されている。これは南北に連なる宮殿区域の中心軸線であるという。

紀南城がいつから楚の都城であったのかは、はっきりしない。大城壁が築かれた時期は、C14年代測定などによって、春秋時代の後期から戦国時代の前期の間と考えられている。実は、この紀南城が本当に楚の都「郢」であったのかという点についても、一部に異論が存在している。しかし楚史研究の専家である谷口満氏は、戦国時代の出土文字資料の分析によって、この紀南城こそが「郢」と呼ばれる楚の都城に該当することを論証しており、少なくとも春秋後期から戦国時代にかけて、この紀南城が楚都「郢」であったことは間違いないであろう。また、宮殿区域内の台基の中には、一部で春秋中期にさかのぼる遺構も発見されており、仮に大城壁が建築された時期が春秋後期以降であるとしても、それ以前からこの地に楚の都城が存在していた可能性は高いという。文献史料では、『春秋左氏伝』文公十四年(前613年)と昭公二十三年(前519年)にそれぞれ「城郢(郢に城く)」と見えており、後者の記事があるいは大城壁の建築開始を伝えているのかもしれない。

これに対し、紀南城が廃棄された時期は明瞭である。文献史料に見える秦頃襄王の二十年(前278年)の白起による「抜郢」の時期に、楚が紀南城を廃棄したことが、考古学的にも裏付けられている。この時期を境に、周辺の墓葬のうち中ランク以上の楚墓が姿を消す一方で、秦人の墓葬が確認されるようになるという。この事象は、秦軍の占領により、楚の貴族層がこの一帯から駆逐されるとともに、秦人の入植が開始された事実を意味するものでなければならない。要するに紀南城は、春秋時代の後期から戦国時代の後期に至るまでの約二百年間、楚の中心地として機能し続けていたと考えられる。

私たちが訪れた地点は、紀南城の大城壁の東南に当たる部分である。東側の城壁を削るように南北に走る襄沙公路に面して前述の石碑が建てられていた(写真9)。石碑の背後には西に向かって、城壁がなだらかなマウンドを形成している(写真10)。これに沿って西に歩くこと数分、城壁に大きな空隙が確認でき(写真11)、空隙の向こう側の城壁が北に屈曲し、城壁上には小高い台基が残されていた(写真12)。楚の南大門の跡と、大門に面した「烽火台」の跡である。私たちは烽火台に上り、北に向かった城壁がさらに西向きにほぼ九十度の角度で屈曲しているのを目にすることができた(写真13)。この屈曲部が紀南城南城壁の凸部の西端であり、これより北側が、紀南城の宮城区域である。もちろん私たちには、内城を囲む城壁も、宮殿区を南北に走る中軸線の跡も、確認できなかった。その後さらに二十分ほど、ゆっくりと南城壁上を歩いてみたが(写真14)、城壁の西端はいまだ見えない。あらためて紀南城の大きさを実感する。

本来ならば、このまま城壁をずっと歩きたいところであった。しかし、一行の次の訪問予定もあり、移動や食事の時間を考慮すると、紀南城訪問は一時間半ほどで切り上げざるを得なかった。まことに残念ではあるが、ふたたび訪問することを期し、マイクロバスに乗り込み、紀南城を後にした。

写真9 紀南城の石碑(南城壁)

写真9 紀南城の石碑(南城壁)

写真10 紀南城南城壁の突出部

写真10 紀南城南城壁の突出部(東から西に向かって)

写真11 南城壁の空隙

写真11 南城壁の空隙(大門の跡)

写真12 烽火台跡

写真12 烽火台跡(北から南に向かって)

写真13 南城壁突出部の屈曲

写真13 南城壁突出部の屈曲(烽火台より北に向かって)

写真14 南城壁(東から西に向かって)

写真14 南城壁(東から西に向かって)

(参考文献)

  • 郭徳維『楚都紀南城復原研究』文物出版社、2000年
  • 徐少華「郭店一号楚墓年代析論」『江漢考古』2005年第一期
  • 谷口満「楚国の都城」『長江文明Ⅱ─諸流域の文化─』勉誠社、日中文化研究、第十号、1996年
  • 谷口満「再論楚郢都的地望問題─紀南城是否春秋時期的郢都?」『楚文化研究論集』第六集、湖北教育出版社、2005年

(渡邉英幸)

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