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『蒼頡篇』について

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『北京大学蔵西漢竹書について』 中国出土文献研究会

五、『蒼頡篇』について

最後に『趙正(政)書』とともに六芸類に分類された『蒼頡篇』について報告する。

『蒼頡篇』は始皇帝の文字統一の一環として作成された識字書であり、漢代に入ってからも行われ、漢代小学書の成立に多大な影響を与えた。『漢書』芸文志(六芸略、小学)によれば、秦代に丞相李斯が「蒼頡七章」を作り、車府令趙高が「爰歴六章」を作り、太史令胡毋敬が「博学七章」を作ったが、漢代に入って「閭里書師」が「蒼頡」「爰歴」「博学」の三篇を合わせ、六十字ごとに章分けして全体を五十五章とし、『蒼頡篇』と総称したことが知られる。『蒼頡篇』はその後亡佚し、長らく実態が不明であったが、二十世紀初頭に発見された漢代の簡牘資料から『蒼頡篇』残簡が検出され、その後百年余りにわたって研究が進められてきた。北大漢簡『蒼頡篇』の意義を明らかにするために、以下、漢簡『蒼頡篇』研究史を三期に分けて略述してみよう。

まず第一期は、二十世紀初頭以降の敦煌漢簡『蒼頡篇』および居延漢簡『蒼頡篇』の出土である。漢簡『蒼頡篇』の発見は、漢代の第一次資料という点で研究者を驚倒させ、従来の単字を中心とした輯佚研究の限界を打開し、句式・押韻などの本文の実態に関する多くの新知見を提供した。しかし、敦煌・居延などの辺境のフィールドから出土した漢簡は基本的にほぼすべてが廃棄木簡であり、そこに含まれた『蒼頡篇』残簡の大部分は現地の役人たちが手習いした習書木簡であった。そのため、残簡自体の数が限られている上に、残存字数の少ない断簡が大半を占め、しかもその多くが冒頭の第一章に集中するという、きわめて限定された範囲での検討を余儀なくされたのである。

こうした状況に対して第二期をもたらしたのが、一九七七年の阜陽漢簡『蒼頡篇』の出土である。阜陽漢簡『蒼頡篇』は、阜陽双古堆一号漢墓に副葬された竹簡の書物(册書)のひとつで、それ以前のフィールド出土の『蒼頡篇』とは性格を異にする。被葬者(汝陰侯夏侯竈)の卒年との関連から、文帝十六年(前一六四)以前の書写とされ、避諱や語法の分析によって、漢代合編以前の秦本に依拠したテキストと見なされている。埋葬時点では「蒼頡」「爰歴」「博学」の三篇を包摂した可能性が高く、多様な分野にわたる収録字や押韻などの具体的な状況が明らかにされたが、資料数の点でなお大きな制約が存在した。阜陽漢簡は、墳墓の崩壊や盗掘などにより竹簡の缺損が甚大であり、『蒼頡篇』の場合も完簡は一点もなく、一二五点の残簡のうち八十点は残存字数三字以下の断簡で、残簡の綴合もわずか二例にとどまり、『漢書』芸文志から計数される総字数三三〇〇字に対して、六分の一足らずの五四〇余字が知られるに過ぎなかった。したがって、その検討には多くの制約が存在し、収録字や句式に関して断片的な情報は得られても、章や篇の排列や構成といった、より広い視野からの検討は、ほとんど不可能な状況だったのである。

北大漢簡『蒼頡篇』は、阜陽漢簡『蒼頡篇』のこうした限界を打開し、第三期をもたらす新資料として、きわめて重要な意義をもっている。以下、朱鳳瀚教授の説明と「北京大学出土文献研究所工作簡報(総第一期)」(二〇〇九年十月)とにもとづき、北大漢簡『蒼頡篇』の意義を三点にまとめておこう。

まず第一は何と言っても、竹簡七十余枚、残存字数およそ一二三〇字という資料数の多さである。この字数は、漢代改編本の総字数三三〇〇字の三分の一以上にあたり、全容の解明に向けて研究が大きく進展することは疑いない。朱教授のお話では、残存字数から推測して、竹簡七十余枚中に「蒼頡」「爰歴」「博学」の三篇が含まれている可能性が高いとのことであった。

第二は、竹簡の大部分が完簡であり、阜陽漢簡『蒼頡篇』では困難であった章の排列や篇の構成などに関する検討が可能となる点が挙げられる。朱教授によれば、北大漢簡『蒼頡篇』は漢代「閭里書師」による六十字一章の改編本と章立てが異なり、秦代の原本の様相に接近するものと見なされ、分章方法、毎章の標題の標示法、各章の字数の多少など、これまで全く知られていない方式がとられているとのことであった。

第三は、これまで知られていた敦煌漢簡『蒼頡篇』・居延漢簡『蒼頡篇』さらに阜陽漢簡『蒼頡篇』との総合的な検討によって、新たな研究の進展が期待される点である。もちろんその具体的な状況は未知数であるが、北大漢簡『蒼頡篇』の編聯復原にこれらの先行資料が重要な役割を果たすであろうことは想像に難くない。また秦代二十章本と漢代五十五章本との関係についても、阜陽漢簡『蒼頡篇』と後者に該当することが明らかな敦煌・居延漢簡『蒼頡篇』との比較が不可欠とされよう。北大漢簡『蒼頡篇』との相互連結によって、これらの先行資料にさらなる新たな価値が生じ、『蒼頡篇』の実態解明に向けての一層の進展につながることが期待されるのである。

[付記]

二〇〇八年八月に甘粛省永昌県水泉子M5漢墓から出土した木簡(水泉子漢簡)から、これまで知られていた四字句の『蒼頡篇』とは異なる七字句の『蒼頡篇』が検出された。その全容は未公表であるが、残存木簡は約一四〇余枚、すべて残簡で一〇〇〇余字が確認されるとのことである(張存良・呉葒「水泉子漢簡初識」〈『文物』二〇〇九年第十期〉、張存良「水泉子漢簡七言本《蒼頡篇》蠡測」〈『出土文献研究』第九輯、二〇一〇年一月〉参照)。この七言本『蒼頡篇』は漢代五十五章本をベースとするテキストと見なされており、北大漢簡『蒼頡篇』とともに秦代から漢代への『蒼頡篇』の変遷と漢代小学書への展開を辿るうえで極めて重要な意義を有している(拙稿「水泉子漢簡七言本『蒼頡篇』考―『説文解字』以前小学書における位置―」〈『東洋古典学研究 第二十九集』 二〇一〇年五月〉参照)。

(福田哲之)

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