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長沙市文物考古研究所

中国湖南省長沙学術調査報告 INDEX

『戦国楚簡研究2006』(『中国研究集刊』別冊特集号〈総四十一号〉)掲載
  平成十八年十二月 二三九―二六八頁

三、長沙市文物考古研究所

(二〇〇六年九月三日午後二時~午後四時訪問)

写真1 「船山学社」入り口

写真1 「船山学社」入り口

長沙市文物考古研究所は、長沙駅前を通る幹線道路五一路の北側、中山路沿いにある船山学社に設置されている。船山学社は、明末清初の学者王船山を記念して辛亥革命後に建てられた学校であり、一九二一年に毛沢東が同所に湖南自修大学を設立したことでも知られる。

マイクロバスを降り、所長の何旭紅先生の出迎えを受けたところへ、ちょうど陳松長教授も到着される。何先生の案内で、「船山学社」の門標と「湖南自修大学」の看板が掲げられた白亜の建物の入り口(写真1)をくぐり抜け、パワーポイントの機材やスクリーンの用意された部屋に通される。緋色の毛氈が敷かれた机上には、すでにガラス板に挟まれた簡牘が並べられ、われわれを待ち受けていた。あらためて挨拶を交わし、著書などを贈呈したのち、まずはじめに、東牌楼東漢簡牘の発掘状況の説明が行われた。何先生・陳教授ほか発掘を担当した所員八名が同席。説明はすべてパワーポイントを使用し、主として発掘担当責任者の黄樸華先生が行い、適宜、他の所員からも補足が加えられた。

東牌楼東漢簡牘発掘報告

東牌楼東漢簡牘に関する説明の概要は、以下の通りである。

東牌楼東漢簡牘は、二〇〇四年の四月から六月にかけて行われた、東牌楼湘浙匯商業大厦工地に点在する古井戸群の発掘調査の際に出土した。東牌楼は三国呉簡の出土で有名な走馬楼の南に隣接し、商業ビル建設に伴う発掘調査であったという点も走馬楼と共通している。走馬楼や東牌楼のある五一広場周辺は、現在、長沙市最大の繁華街であるが、戦国から明清にかけても、歴代の官署が集まる都城の中心区域として機能し続けていたことが、文献資料や考古発掘によって明らかにされている。走馬楼三国呉簡・走馬楼西漢簡牘や東牌楼東漢簡牘は、いずれも廃棄坑として利用されたと見なされる官署の井戸から出土しており、簡牘の大部分は廃棄された官署の文書と推定されている(走馬楼三国呉簡の埋蔵理由については異説もある)。

余談ながら、翌日、走馬楼三国呉簡の出土地に建つ平和堂デパートを訪れた際、東牌楼東漢簡牘出土地はこのあたりであろうかと目をやったが、すでにビルが建ち並んで発掘時の面影をしのぶことはできなかった。しかし、繁華街の喧噪のなかに林立する高層ビルの風景に、ふと官衙が軒を連ねた古代の官庁街の幻影が重なり、長沙の歴史の重みを実感することができた。

東漢簡牘が出土した七号古井(J7)は、口径一・二〇メートル、深さ七・六〇メートル。層位は五層からなり、第二層から第五層(三・二四~七・六〇メートル)において四二六枚(有字簡牘二〇六枚・無字簡牘二二〇枚)の木質簡牘が出土した。簡牘中にみえる年号は、建寧・熹平・光和・中平の四種で、最早は建寧四年(一七一年)、最晩は中平三年(一八六年)。これらはすべて東漢霊帝(在位一六七~一八九年)期の年号であり、他の簡牘も主として霊帝期に属するものと推定されている。

なお、東牌楼東漢簡牘については、本年四月に文物出版社から刊行された長沙市文物考古研究所・中国文物研究所編『長沙東牌楼東漢簡牘』に詳細な報告が掲載されているので、あわせてご参照いただきたい。

東牌楼東漢簡牘の実見

説明が終わると、いよいよ東牌楼東漢簡牘の実見に移った。あらかじめ用意された手袋を着用し、一点ずつ手にとって詳細に観察する(写真2)。

展示された簡牘は十二点。木牘・木簡の他に封検[二](以下、[ ]内の漢数字は『長沙東牌楼東漢簡牘』の整理番号を示す)や人形木牘[一一七]など、各種の形制が選定されている。敦煌・居延漢簡以来、図版では周知の封検も、原物を手にとって各方向から形状をつぶさに観察するのは、はじめての経験であった。また、人形木牘は東牌楼東漢簡牘のなかでも特異な形態として知られるもので(写真3)、表裏に記された文章は、熹平元年(一七二)に覃超が死後の世界に上言する形式をもち、従来知られていた墓券や鎮墓文、「冥土へのパスポート」と呼ばれる墓主の身分証明書などとともに、漢代人の死後の世界観を明らかにする新資料として注目されている。

東牌楼東漢簡牘が書体・書法史上きわめて重要な意義をもつことは、すでに劉濤「長沙東牌楼東漢簡牘的書体・書法与書写者」(『長沙東牌楼東漢簡牘』所収)が指摘するところであるが、展示された十二点のなかには、篆書[一五四背]、隷書[二・一五四正背]、早期楷書[一二・一一七正背]、早期行書[二九正背・五五正背]、草書[五一正背・五二正背]といった各書体の代表的な例とともに、[三五正背・三六正背・七〇正背]のような早期楷書と早期行書とが混在した過渡的な状況を示す貴重な資料も含まれており、簡牘の選定に対する行き届いたご配慮をありがたく感じた。

写真2 東牌楼東漢簡牘の実見

写真2 東牌楼東漢簡牘の実見

写真3 人形木牘

写真3 人形木牘



望城風篷嶺一号墓発掘報告

最後に、今年の六月に発掘が終了したばかりの最新情報として、望城風篷嶺一号墓の発掘状況や出土文物などの説明をうけた。概要は以下の通りである。

望城風篷嶺一号墓は、柏の木を積みあげてつくった黄腸題湊とよばれる椁柩をもち、墓葬の形態に特色が認められる。すでに盗掘されており、椁板がくずれて墓室が潰れた状態で出土し、椁板には番号が付されていた。出土文物には、陶器・青銅羊鎮・漆器・銅鍾・玉璧・銅灯(銘文末尾に「長沙元年造」の紀年)・五銖銭などがある(簡牘出土の報告はなかった)。

出土文物についての詳細は検討中とのことであり、墓の年代に関する言及もなかったが、武帝の元狩四年(前一一九)に制定された五銖銭の出土や漆器に記された「宜酒食」の字体などから、おそらく武帝期以後の西漢墓であろうと推測された。また、銅灯銘文中の「長沙元年」についても西暦の何年に該当するかは不詳とのことであったが、先の墓葬年代との関連からすれば、初代呉?にはじまる呉氏前長沙王国(前二〇二~前一五七)廃絶の二年後に、景帝の子の定王発を長沙王に叙して再興された劉氏後長沙王国の元年、すなわち前一五五年に比定することができるのではないかと思われた。この推測に従えば、出土した銅灯は製造後、少なくとも四十年近くを経た伝世品であったことになろう。

いずれにしても、望城風篷嶺一号墓は漢代長沙王国の歴史を解明する上に重要な意義を有するものであり、発掘報告の正式な公表が期待される。

以上が、長沙市文物考古研究所訪問の概要である。最後に、何旭紅先生をはじめとする長沙市文物考古研究所のご高配とご同行いただいた陳松長教授のご厚情に対し、あらためて深甚なる謝意を表したい。

(福田哲之)

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