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『戦国楚簡研究2006』(『中国研究集刊』別冊特集号〈総四十一号〉)掲載
平成十八年十二月 二三九―二六八頁
五、長沙市文物考古研究所分室
(二〇〇六年九月四日 午後三時四十分~五時訪問)
長沙市文物考古研究所の分室は、長沙市博物館の敷地の中の建物の一角にあり、前日に訪問した長沙市文物考古研究所とは場所が異なる。ここで我々は、長沙市簡牘博物館館長の宋少華先生の説明を受けながら、洗浄・整理作業中の走馬楼西漢簡牘の実物を見せていただいた。
走馬楼西漢呉簡
走馬楼西漢簡牘は、一九九六年に長沙市走馬楼の八号古井(J8)から出土した。出土した簡牘の数は約二万枚、その内約二千枚が有字簡とのことだが、現在全体の約八割が未整理だそうである。
簡牘に記されていた内容は、大部分が司法関係の公文書で、駅站や官舎管理のものも含まれていた。簡牘の年代は、記されていた暦朔から、前漢・武帝の元朔・元狩年間、すなわち紀元前一二五年~一二〇年頃、長沙王国第二代の劉康(戴王)の時期と推定されている。
なお、走馬楼西漢簡牘については、中国文物研究所編『出土文献研究』第七輯(上海古籍出版社、二〇〇五年)所収の、長沙簡牘博物館・長沙市文物考古研究所聯合発掘組「二〇〇三年長沙走馬楼西漢簡牘重大考古発現」を参照されたい。
簡牘の洗浄・整理作業
我々が見せていただいた簡牘の洗浄・整理作業は、以下の六つの段階に分かれていた。
(一)洗浄作業の行われる前の段階(写真1)
全体に泥などの汚れが付着した二〇枚程度の簡牘が、プラスチック製のトレーの中の水に浸されていた。トレーの中の簡牘は、折れ曲がったり、ねじれたようなもの(竹簡)もあったが、ほとんどはそれほど折れ曲がってはいなかった。但し、その表面は全体的にかなり汚れていた。トレーの底には、簡牘から自然に剥がれ落ちたと思われる汚れがたまっていた。
(二)簡牘の汚れを洗浄する段階(写真2)
水が浅く入ったホーロー引きのトレーの中で、長さ五センチメートルほどの簡牘(残簡?)を斜めにしたガラス板の上に置き、左手に大筆、右手に小筆を持った作業員が、専ら小筆を細かく動かして、簡牘に付着した汚れを丁寧に洗い落としていた(写真3)。作業員が、大筆にトレーの水を含ませては簡牘にかける動作を頻繁に繰り返していたのが強く印象に残った。トレーの底には、簡牘から落とされた細かな汚れがたまっていた。
以前上海博物館で故・馬承源先生から窺った話によれば、香港から上海博物館に持ち込まれた戦国楚簡は、大量の水を含んでいて非常に柔らかかったそうである。この洗浄作業中の木牘は、その材質や厚さのためか、それほど柔らかいようには見受けられなかった。
(三)洗浄作業を終えた段階(写真4)
二十枚程度の洗浄された簡牘が、ばらばらになった状態で、プラスチック製のトレーの水の中に浸されていた。ほとんどすべてが、文字の記されていない白簡のようであった。
(四)水入りの袋の中に入れられた段階(写真5)
洗浄作業を終えた六枚の簡牘(長さが約四六センチメートルの長簡五枚と、半分の約二三センチメートルの短簡一枚)が、水入りのビニールの袋の中に入れられ、ステンレス製の蓋付きトレーの中に収められていた。それぞれの簡牘は、表裏の両側からガラス板で挟まれ、ガラス板ごと糸で硬く縛られて固定されていた。
(五)薬水に浸けられた段階(写真6)
やはり表裏からガラス板で挟まれて固定された簡牘が、薬水の入ったステンレス製の蓋付きトレーに入れられていた。簡牘に記された文字は、かなりはっきりと見えた。薬水の成分については分からない。
簡牘は、長簡三枚と短簡三本の合計六枚であったが、宋少華先生の説明によれば、その断面の形状が三角形の山形をしたものと、台形のものとがある。見せていただいた断面が山形の簡牘(長簡)は、確かに山形の片側の斜面に当たる面だけがガラスに密着しており、もう片方の斜面に当たる面には、ガラスが密着していなかった。
(六)簡牘の写真を整理する段階 (写真7…手前の部分)
一枚の写真の大きさはA4程度で、そこには複数の簡牘(残簡を含む)がまとめて写されていた。一枚の写真に写された簡牘の数は、概ね七枚から十数枚程度で、写真の余白の部分には、それぞれの簡牘の通し番号と思われる数字が手書きで付されていた。また写真の端には、簡牘の幅が分かるようにメジャーも写し込まれており、写真の通し番号と思われる活字の数字もあった。
写真の中の簡牘の文字は非常に鮮明であった。おそらく簡牘は、洗浄・保存処理などがすべて終わった後で撮影されたのであろう。
作業員は、複数の簡牘が写っている写真にはさみを入れ、簡牘一枚ずつの写真に切り分けていた。切り分けた写真は、簡牘の大きさに基づいて分けているようであった。
パソコンの画像による説明
続いて、二〇〇三年の一一月に走馬楼西漢簡牘が出土した時の情況、整理の情況などについて、パソコンの画像を見ながら説明を受けた。この時の説明の内容は、概ね以下の通りである。
- 簡牘が出土した八号古井の直径は八〇センチメートルで、発掘地点の地層は、下から、古層(基盤)、漢代以降の地層、明代以降の地層に分かれている。簡牘が出土したのは、漢代以降の地層の部分からである。
- 発掘に当たっては、先ず重機を使って井戸の周囲を広く掘り下げた上で、井戸を縦に切り開き、その断面から、泥などと一体になって堆積した簡牘の塊を丸ごと取り出した。井戸の中からは、陶器の破片なども出土した。
- ビニールシートのようなものにくるまれて発掘現場から運び出された簡牘の塊は、水をかけながら少しずつほぐして解体された。取り出された簡牘は、層ごとに分類され、それぞれプラスチックのトレーに収められた。
- すぐ隣にある同時代の九号古井からは、何も出土しなかった。
- 出土した簡牘の枚数は約二万枚で、そのうち文字の記されていたものは約二千枚であった。文字が記されていない簡牘(白簡)も、いつでも文字を書くことができる状態のものであった。
- 整理に当たっている人員は当初二〇名いた。現在は六~七名で取り組んでいる。既に整理作業は十年の歳月をかけている。
白簡の性格
出土した走馬楼西漢簡牘約二万枚は、ゴミとして廃棄されたものであるとの説明があった。この点について浅野氏は、二万枚のうちの大半は白簡で、白簡をゴミとして廃棄する必然性は無いと指摘した上で、走馬楼三国呉簡や里耶秦簡など、およそ古井の中から発掘された簡牘で白簡を多数含むものについては、戦乱などにより役所が撤収したために廃棄されたのではないかとの見解を述べた。この見解をめぐって活発な意見交換が行われ、我々の訪問に付き添って下さっていた陳松長教授も、浅野氏が指摘した可能性は否定できないと認めた。また宋少華先生も、走馬楼三国呉簡が廃棄された原因としては、呉の国内で起きた政変と、魏による攻撃の二つが考えられると述べた。今後の研究により、出土した白簡の性格についても解明されることが期待される。
膨大な作業量
長沙市文物考古研究所分室を訪問し、出土した簡牘の洗浄・整理作業を実際に見ることができたことは、大変参考になった。もとより、郭店楚簡や上博楚簡のように、副葬されたものが出土した場合と、走馬楼西漢簡牘などのように、古井に廃棄されたものが出土した場合とでは、作業の進め方に異なる点もあろう。しかし、出土資料はすべて、その釈読の前に必ずこうした洗浄・整理作業が行われているのである。この作業は、文献の釈読や、或いは簡牘の保存にも大きく影響を与えると思われ、出土資料研究において極めて重要な意味を持つものである。様々な制約があると思われるが、洗浄・整理作業に当たっては、可能な限り適切な処置が施されることを期待したい。
それにしても、二万枚に及ぶ走馬楼西漢簡牘の洗浄・整理作業は、十年かかってもまだ終わっていないという。その膨大な作業量には圧倒される。おそらく今後も更に新たな簡牘資料が出土することであろう。作業に当たられる関係者各位の一層の活躍を切に祈っている。
(竹田健二)