湯浅邦弘
中国研究集刊 玉号(総五十号)平成二十二年一月 二八〇―二八八頁
清華簡研究の展望
別室に移り、李学勤氏と面会した。竹簡実見に立ち会った三氏のほか、李均明研究員も加わって、会談が始まった(注1)。
まず李学勤氏から、清華大学創立百周年にあたる二〇一一年に清華簡の刊行が分冊形式で始まるとの説明があった。竹簡枚数一二〇〇枚からなる上博楚簡は全十分冊(別冊を含む)の予定で刊行が続けられている。二〇〇〇枚を越える清華簡は、はたして何分冊となるのか。
続いて、質疑応答に入った。この過程で注目されたのは、次のような諸点である。まず、清華簡を「楚簡」と呼ばないのは、全体の精査を終えていないので、慎重を期してのことだそうである。我々が実見した竹簡は確かに楚系文字で記されていたが、七十もあるトレーの中には、そうとは断定できないものもあるのであろうか。また、そもそも近年発見された竹簡は、「楚簡」とは呼ばれているものの、他の地域、たとえば斉・魯・三晋などの戦国竹簡は見つかっていない。とすれば、出土地が判明している郭店楚簡はともかくとして、清華簡を「楚簡」と称して良いのかについては、現時点では即断できないという慎重な意識も働いているのであろう。
次に、郭店楚簡・上博楚簡・清華簡の筆写時期の問題について、センターでは、科学測定(前記の同位炭素測定)、文字、内容の三点から、ほぼ同時期と考えているとのことであった。戦国中期の筆写であるとすれば、文献の成立は当然それよりさかのぼる。戦国時代、あるいは春秋時代の文献である可能性も想定される。
また、これまでの出土文献では、墓主との関係が注目されている。たとえば、睡虎地秦墓竹簡は秦の法律関係文書であったため、墓主は法吏と考えられ、銀雀山漢墓竹簡は兵書が大半を占めていたので、軍事関係者が墓主であったと推測されている。この清華簡はどうであろうか。全容は公開されていないものの、センターの発表によれば、その内容は、『尚書』の一部と推測される文献、『竹書紀年』に類似する編年体の史書、『国語』に類似した楚の史書、『周易』に関係する文献、『儀礼』に類似する文献、音楽関係の文献、陰陽月令に関する文献、馬王堆漢墓帛書『相馬経』に類似する文献などである。このことから、墓主は史官である可能性も考えられるとのことである。
最後に、筆者から、李学勤氏の論考を翻訳し、大阪大学中国学会の『中国研究集刊』に掲載したい旨を伝え、了承を得た。これは、『文物』二〇〇九年第六期に掲載された同氏の論考を想定したものであったが、『中国史研究』二〇〇九年第三期掲載予定の論考にその後の最新情報を盛り込んであるので、あわせて紹介してほしいとの要請があった。日本では、まだ清華簡の情報が決定的に不足している。センターの代表者である李学勤氏の正式な論考を日本語に翻訳して学術誌に掲載することには一定の意義があろう。
約一時間の会談を終え、全員で会食した後、我々は清華大学を後にした。二〇一一年に公開が始まるという清華簡。郭店楚簡、上博楚簡に続く第三の戦国竹簡は、先秦思想史を劇的に塗り替えて行くことであろう。
なお、この会談の設定については、以前から我々と親交のある人民大学の刁小龍氏(清華大学出身)の御高配を得た。刁氏には通訳の補助も務めていただいた。会談がきわめてスムースに進行したのも、刁氏のおかげである。