『戦国楚簡研究2007』(『中国研究集刊』別冊特集号〈総四十五号〉)
平成十九年十二月 一四四―一六七頁
四、岐山周公廟
調査第四日目の八月三十一日朝、我々はマイクロバスに乗り込んで西安を離れ、小雨の降る中、高速道路を西に向かって宝鶏市へ移動した。
途中で一度高速道路を降りて、岐山県の周公廟を短時間視察した。西安から西に約一五〇キロ離れたあたりである。
「周公廟を訪れる外国人は少ない」と話す現地ガイドと運転手は、周公廟への道をよく知らなかったらしい。新しい道路が最近できたためだったのかも知れない。金所や道端で現地の人に何度も道を尋ねて、ようやく周料公廟に辿り着くことができた。道中、黄土に広がるトウモロコシ畑が見え、また既に人が住んでいなさそうな★(ヤオ)洞もいくつか見えた。
この周公廟は、唐の高祖が創建した周公祠が始まりだという。広い構内に入ってまっすぐ進み、一階部分が土産物屋になっている楽楼を通り抜けると、大きな周公旦の石像が建てられていた(写真17)。比較的新しいこの石像は、両手で巻物を持つ姿をしており、その巻物は、どうも竹簡を巻いたもののようである。
石像のすぐ後には、天井に易の八卦や太極の図が描かれた八卦亭があり、更に奥へ進んでいったところに、周公旦を祭る周公殿がある。案内板の記述によれば、周公殿の建物は明代に建てられたものである。
周公殿の左右には、召公と太公望呂尚とをそれぞれ祭る召公殿・太公殿が、また周公殿に向かって右手の後ろには、周の始祖とされる后稷の母・姜垣を祭る姜★(女+原)殿が建っていた。筆者は見落としたのだが、后稷を祭る后稷殿も別にあったようだ。
周公廟のある岐山県から扶風県にかけての、周原と呼ばれる一帯は、周王朝発祥の地であり、また春秋戦国時代の秦の根拠地でもあった。付近には、大型の周墓や大量の甲骨片などが発見された周公廟遺跡、また扶風県には、その名も周原博物館があるが、今回は時間の関係で立ち寄ることができなかった。
(竹田健二)