西安

中国西安・上海学術調査報告 INDEX

『戦国楚簡研究2007』(『中国研究集刊』別冊特集号〈総四十五号〉)
平成十九年十二月 一四四―一六七頁

二、西安

写真2 西安城壁(南門)

写真2 西安城壁(南門)

調査初日の八月二十八日は、まず、宿泊先ホテル(長安城堡大酒店)の目の前にある西安城壁を視察した(写真2)。西安城壁は唐の長安城を基に明代に構築されたものである。周囲十四キロ。縦(南北)がやや短く、横(東西)がやや長い長方形を呈している。城壁の高さは十二
メートル、城壁上部の幅は十二~十四メートル、基底部の幅は十五~十八メートルという重厚な構え。現存する古代城壁の中では、最大規模のものである。我々が視察したのは、南門(永寧門)およびその周辺である。南門に登ると、城壁と城市の壮大な規模が実感できた。

また、南門の下には、雲梯、偏箱車、抛石機などの複製品が展示されていた。こうした古代兵器は、『武備志』『三才図会』などに画像資料は残ってはいるが、今ひとつ形を把握しにくく、ミニチュアとはいえ、これらの複製品の持つ意味は大きい。巨大な城壁と兵器のレプリカにより、古代城市をめぐる攻防戦にしばし思いを馳せた。

続いて、昼前に訪れたのは、市内の大雁塔(慈恩寺)である。慈恩寺は、唐の高祖李淵が、その母・文徳皇后を供養するために、貞観二十二年(六四八)に建立した仏教寺院である。大雁塔は、その寺院内にある高さ六十四メートルの四角七層の塔。玄奘がインドから持ち帰った仏典を保管するため、永徽三年(六五二)に建立されたものである。塔の入り口には、唐の太宗李世民が玄奘三蔵の翻訳した経典のために記した「大唐三蔵聖教序碑」と、高宗李治が記した「大唐三蔵聖教序記碑」が見られた。いずれも★(チョ)遂良の筆(楷書)である。この大雁塔は、一九六一年に国家第一級重点文物保護単位に指定されている。

午後は、大雁塔の西に位置する陝西歴史博物館を訪問した。この博物館は、一九九一年六月の開館。敷地七万平方メートル、収蔵品三十七万五千点、国家一級文物七六二件、国宝十八件を誇る、中国有数の博物館である。展示室は時代順に四室に分かれており、先史時代の彩陶、殷周時代の青銅器、漢・唐時代の金銀器、唐三彩に代表される陶俑、壁画などに特色がある。

予め、来訪の時刻を伝えていたので、我々は到着後直ちに館長室に招かれ、成建正館長と約五十分にわたって会談した(写真3)。この会談では、博物館の概要や周辺陵墓の様子などを説明していただいたが、特に興味深く感じられたのは、始皇帝陵や茂陵(前漢武帝の陵墓)の発掘計画が現時点ではないという点であった。これは、皇帝級の陵墓を軽率に発掘すべきではないという保守的精神とともに、仮に発掘した場合、予想される膨大な出土品の保存や調査が困難であるという事情によるという。ちなみに、著名な明の十三陵では、出土品の四十パーセントが亡佚したとのことであった。

写真3 陝西歴史博物館(中央が成建正館長)

写真3 陝西歴史博物館(中央が成建正館長)

また、我々の最大の関心事であった簡牘資料については、残念ながら、博物館には該当資料がないとの回答であった。これは、西安地区の気候・地質が影響し、簡牘が残りにくいからであるという。簡牘資料が二千年の時を越えてよみがえるのは、湖北省・湖南省のような湿潤な地か、あるいは、極度な乾燥地帯なのである。
二時間あまりの博物館訪問を終えて、ホテルへの帰途、西安城内の董仲舒墓を視察した(後述)。

(後列左から三番目が晏新志館長、四番目が王保平副館長)

(後列左から三番目が晏新志館長、四番目が王保平副館長)

翌八月二十九日は、ホテルを午前九時に出発。約一時間で西安北郊の陽陵博物苑に到着し、晏新志館長、王保平副館長と会談した(写真4)。

一九九〇年、西安咸陽国際空港に至る高速道路を建設していた際、陽陵の陪葬坑が発見され、約十万点の文物が出土した。陽陵とは、「文景の治」として讃えられる前漢景帝(在位紀元前一五七~一四一)と王皇后の同塋異穴(墓域を同じくし墓室を異にする)合葬墓である(写真5)。陽陵博物苑はこの陪葬坑の発見を受けて創設され、大規模な発掘調査が進められた。陵苑全体は、東西約十キロ、南北一~三キロ、総面積二十平方キロメートルに及ぶ。陵区の主要な遺跡は、皇帝・皇后陵、南北の陪葬墓、建築遺跡、刑徒墓地などからなる。

一九九九年に陳列館が竣工、約二千点の出土資料の展示が始まり、二〇〇一年には全国重点文物保護単位に指定された。また、二〇〇六年には、陪葬墓の展示館が完成した。自然の景観を保護するため、半地下の展示室となっている。また、透明度と強度にすぐれたスロバキア製のガラスを使用し、計十三の陪葬坑の上を歩けるようになっていた。陪葬坑は最長のもので九十四メートル、第十二号坑は八メートルと短いが車馬坑となっており、車馬の複製品が置かれていた。

写真5 陽陵

写真5 陽陵

写真6 陽陵博物苑展示の人俑

写真6 陽陵博物苑展示の人俑

会談では、陽陵の概説をうかがったが、ここでもやはり簡牘資料はまったくないとのことであった。それを裏づけるのは、陪葬墓から出土した約千体の裸体俑である(写真6)。秦の兵馬俑とは異なり、約三分の一のミニチュアで、また造形的にも簡素な人俑であるが、ここで注目されたのは、すべての人俑の両腕がない点である。これは、体の部分が陶製であるのに対し、両腕は可動式の木製であったためである。もともと俑が身につけていた衣服と木製の両腕とはすべて朽ちてなくなっているのである。このことからも、この地区が簡牘資料の保存に適さない土地柄であることが改めて了解された。

写真7 景帝陵の南闕門

写真7 景帝陵の南闕門

その後、博物館の武子栄女史の案内で、館内の展示品、および景帝陵の南闕門を視察した(写真7)。闕門とは、陵墓を囲む方形四周の土壁の東西南北それぞれ中央に築かれた門である。一九九七年、この内の南闕門遺跡の発掘調査が行われ、二〇〇一年には、その復元・保護のた
めの南闕門保護陳列庁が建設された。南闕門は景帝陵(一辺百八十メートル、高さ三十一メートル)の封土の南端から百二十メートルの地点にあった大門で、発掘された闕門としては最大規模のものである。

 

写真8 拓本製作(西安碑林博物館)

写真8 拓本製作(西安碑林博物館)

午後は、西安市内に帰り、碑林を見学した。ここは、もとの孔子廟を、石碑・墓碑・石刻資料の博物館としたもので、碑林そのものの創建は北宋の元祐二年(一〇八七)に遡る。一九三八年に碑林研究委員会が設立され、 一九四四年に陝西省歴史博物館として開館。その後、西北歴史陳列館、西北歴史博物館、陝西省歴史博物館と改称され、一九九三年に西安碑林博物館となって現在に至っている。

敷地内は、孔廟、碑林、石刻芸術室に区分され、総面積は三万平方メートル余り、収蔵文物は一万一千点である。この内、碑室は全七室からなり、三千五百点の石碑の内、約千点が常設展示されている。著名な開成石経(第一室)、石台孝経(石台孝経亭に別置)、熹平石経残石(第三室)、孔子廟堂碑(同)、顔氏家廟碑(第二室)などを実見したが、拓本製作の実演を見学できたのも収穫であった(写真8)。

調査三日目となる八月三十日は、ホテルを八時に出発。
約一時間で、秦俑博物館に到着した。秦の兵馬俑を展示する秦俑博物館は、西安市街から東に約五十キロ、始皇帝陵の東約一.五キロの地点に位置する。
事前連絡の通り、我々のマイクロバスは、博物館の玄関に横付けするよう誘導され、すぐに呉永琪館長と面会した(写真9)。秦俑博物館については、すでに多くの資料により紹介されているので、詳細は省略するが、一九七四年三月に西安市臨潼区において発見された秦の兵馬俑は、一九八七年に中国で初めて世界遺産に登録された(現在、中国国内の世界遺産は計三十四)。出土文物は約六万点、一号坑(歩兵、車兵)、二号坑(車兵、歩兵、騎兵)、三号坑(司令部)、銅車馬坑を併せて、現在、八千体余りの兵馬俑が確認されている。

写真9 秦俑博物館(左端が呉永琪館長)

写真9 秦俑博物館(左端が呉永琪館長)

写真10 兵馬俑(一号坑)

写真10 兵馬俑(一号坑)

呉館長との会談では、簡牘資料について質問したところ、やはりここでも、簡牘資料は一切発見されておらず、兵馬俑が持っていたと推測される木製兵器も、すべて腐ってなくなっているとの回答であった。

写真11 兵馬俑特別観覧

写真11 兵馬俑特別観覧

会談後、研究員の秦仙梅女史の案内により、第一号坑から順に館内を視察した(写真10)。ここで我々は、一般観光客とは異なる特別観覧を許された。東西二百十メートル、南北六二メートル、深さ四・五~六メートルという最大の兵馬俑坑である一号坑は、約六千体の兵馬俑の上が体育館のような大屋根で覆われており、通常は、これを二階観覧席から見るような形になる。つまり、相当高い位置から兵馬俑を俯瞰するのである。ところが、我々は一段低い観覧席に招かれ、兵馬俑をかなり低い位置から視察できた。さらにその後、一号坑の右手奥の方に導かれた我々は、墓坑に隣接する一角に立ち入ることを許されたのである(写真11)。これにより、各俑の詳細を直接肉眼で確認でき、俑に刻まれた職工のサインと思われる文字も目にすることができた。兵士俑と並んでみて、初めてその大きさも実感できた。

視察を終えた後、兵馬俑の第一発見者である楊志発氏のサイン入りの図録を購入して、秦俑博物館を後にした。

なお、日本で初めて本格的な兵馬俑展が開催されたのは、一九八三年十月~十一月の大阪築城四百年まつり特別展示(大阪城公園)である。以来、規模の大小に差はあっても、幾度かの展示を重ねているが、近年開催されたものとしては、「秦の始皇帝と兵馬俑展」(二〇〇〇年三月~十月、山形美術館ほか)、「始皇帝と彩色兵馬俑展」(二〇〇六年八月~二〇〇七年七月、江戸東京博物館、京都文化博物館ほか)があり、それぞれ優れた図録が刊行されている。

昼食後は、始皇帝陵に向かった。秦俑博物館を満喫して始皇帝陵を素通りする観光客が多いためか、ここには、所々に「先拝始皇 后看兵」(始皇帝陵を参拝してから兵馬俑を見ましょう)の看板が掲げられていた。始皇帝陵は高さ七六メートルの頂上まで登れるよう石段が築かれているが、あいにくの小雨まじりの天候で、我々は墳丘の途中までで引き返した。

その後、西安市内への帰途、半坡博物館を訪問した。ここは、一九五二年に発見された新石器時代の遺跡約五万平方メートルを、そのまま博物館としたものである。居住区、環濠、墓地などをそのまま大屋根で覆って展示している。半坡は、約六千年前の母系氏族社会の原始村落遺跡であるが、ここで注目されたのは、人面や各種記号の描かれた陶器である。陶器に記された種々の記号は、文字の起源として重要な資料である。我々は、その陶器の中でも最も著名な「彩陶人面魚文鉢」のレプリカを購入した。また、発見された二五〇余りの墓の内、北西向きに作られた成人墓群や、夫婦や家族の合葬墓の実例が見られた点などは、大きな収穫であった。

さて、この西安地区の学術調査で、多くの考古文物を実見できたわけであるが、一方で、簡牘資料はまったく目にすることができなかった。竹簡はおろか、墓坑内の棺椁や木製品すら残っていないのである。唯一の例外は、陝西歴史博物館に展示してあった秦公一号大墓の外郭の一部のみであった。文字といえば、青銅器の金文、封泥や瓦当、陶器、印章の文字であり、我々が研究している竹簡や木簡の文字資料は皆無であった。
これは、先述の通り、この地区の気候・地質が簡牘の長期保存に適さないためであり、今後、仮に始皇帝陵や陽陵、茂陵などが発掘されても、簡牘文字資料が発見される可能性は極めて低いと考えられる。そして、このことは、湖北省・湖南省から発見された大量の簡牘資料がいかに貴重なものであるかを、逆に物語っている。郭店楚墓竹簡や上博楚簡の出土は、当地の気候と地質がもたらした一つの奇跡なのである。

(湯浅邦弘)

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