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上海博物館

中国西安・上海学術調査報告 INDEX

『戦国楚簡研究2007』(『中国研究集刊』別冊特集号〈総四十五号〉)
平成十九年十二月 一四四―一六七頁

六、上海博物館

九月二日、午前八時五十分、我々は今回の学術調査における最後の訪問先である上海博物館に到着した。濮茅左先生との約束は、開館時間の午前九時。入り口で待っていると、入館者にまじって濮先生が近づいてこられた。すぐにあいさつを交わし、それから館内一階の応接室で一時間半にわたってお話をうかがった。

写真22 濮茅左先生(中央)との会見

写真22 濮茅左先生(中央)との会見

実は、濮先生とは日本を出発する時点で連絡が取れず、はたして今回お目にかかることができるかどうか若干の不安があった。しかし、西安から一足先に上海に戻ったスルーガイドの呉穎さんのお陰で連絡がつき、昨年に続いての会見が実現したのである。

顧みれば、筆者が戦国楚簡研究会の一員としてはじめて上海博物館を訪問し、濮先生にお目にかかったのは、二〇〇一年八月であった。翌二〇〇二年八月にも続いて訪問したが、この二回の訪問のおりには、元館長の馬承源先生もお元気で、長時間にわたって我々の質問に懇切に答えてくださった。その後、二〇〇四年九月二十五日に馬承源先生がご逝去されてからは、しばらく濮先生にもお目にかかる機会が得られなかったが、昨年八月に四年振りにお目にかかることができ、今回で四度目の会見となった。

昨年の会見についてはすでに「中国湖南省長沙学術調査報告」(『中国研究集刊』第四十一号、二〇〇六年)および「上海博物館蔵戦国楚簡「字書」に関する情報」(『中国研究集刊』第四十三号、二〇〇六年)において報告したが、今回濮先生からご提供いただいた情報は、「戦国楚簡「字書」に関する補足的な情報」と「今後公表が予定されている上博楚簡に関する情報」とに二大別される。それぞれの概要は以下の通りである。

(一)戦国楚簡「字書」に関する補足的な情報

  1. 「字書」の形式は、現在の字書からは説明できず、部首の数は少なくとも数十という程度のものではない。
  2. 竹簡一枚に見出し字一字分が対応する形式ではなく、一枚に数字分がまたがる連写形式をもつ。
  3. 「字書」の出土地は、他の上博楚簡と近い場所であると推測されるが、上海博物館の収蔵に至るまでの経緯が複雑であるため特定できない。

(二)今後公表が予定されている上博楚簡に関する情報

  1. 両面にそれぞれ別種の文献が書写されている竹簡のうち、すでに正面を公表した資料の背面を新たに公表する予定である。これは背面を再利用したもので、正面とは内容的に関連しない。
  2. 音律に関する文献については、現在、音楽理論の研究家と箏の演奏家との二人の専門家によって整理が進行中である。二人は戦国期にこのような複雑な音律が存在したとは思わなかったと驚いていた。

濮先生は、我々の質問に答えながら、時に上博楚簡に関わるご自身の心情を吐露された。例えば、

いろいろな噂が流れ、偽物だという人もいたが、まったくとんでもない話です。竹簡を購入した段階で十分な確信があり、それは科学的な分析によっても裏付けられました。香港に流出した時の楚簡は泥まみれの状態で、にわかに真偽の判別もつかず、ゆっくり鑑定できるような時間的余裕もありませんでしたが、馬承源元館長の英断で購入が決定されたのです。私は馬承源元館長の文物鑑定家としての眼力を心から尊敬しています。

との発言には、貴重な文物の流出を瀬戸際で食い止めた、馬承源先生をはじめとする関係者の見識にあらためて深い敬意を抱くとともに、学術的良心のかけらもない無責任な噂が残す傷口の深さに強い憤りを覚えた。また、

上博楚簡の整理にかかわって以来、プレッシャーも大きいです。しかし、国内外のすぐれた研究者はつねに最前線に立って研究を推進しており、私もそうしたみなさんの期待に応えたいのです。

との発言には、歴史的意義をもつ資料の整理に携わる一人の研究者としての自負と決意とを垣間見る思いがした。
最後に、濮先生が我々に語られた馬承源先生の言葉を紹介して、報告の結びとしたい。

上博楚簡の意義は、上海博物館をもう一つ建設するような大事業に匹敵する。上博楚簡の研究はこれから百年以上続き、ますます盛んになっていくだろう。

写真23 濮茅左先生と研究会メンバー

写真23 濮茅左先生と研究会メンバー

(福田哲之)

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