董仲舒墓

中国西安・上海学術調査報告 INDEX

『戦国楚簡研究2007』(『中国研究集刊』別冊特集号〈総四十五号〉)
平成十九年十二月 一四四―一六七頁

三、董仲舒墓

八月二十八日午後、陝西歴史博物館の見学および館長との会談を終えたのは、現地時間でちょうど午後四時過ぎだった。陝西省あたりから簡牘資料が出土する見込みはないと館長に断言された我々はガックリと肩を落としつつ博物館を後にした。この日の予定はこれで終わりである。だが、ホテルに帰るには少々早い時間である。ホテルへの帰途ついでに、どこか見に行きますかという声に、「董仲舒の墓があるらしいのですが」と切り出したのは筆者であった。

今年度の中国陝西省における学術調査の中心地は、西安であった。旅客券の手配などをお願いした旅行社から送られてきた封筒には、小さく折りたたんだ「西安観光図」という日本語版の市街地図が同封されていた。市街地に明代の城壁が残されていることは側聞していたが、どのような街かは詳しく知らなかった。少しは予習でもと思い、その市街図を開いてみると、不思議なことにまず目についたのが「董仲舒の墓」だった。西安城内の南東の端にその場所は記されていた。董仲舒といえば、前漢武帝によって行われた儒学の国教化の立役者である。中国思想史に必ず登場する思想家の一人である。『漢書』董仲舒伝によれば、彼は故郷の広川で亡くなったとされており、その子孫が茂稜に暮らしたとある。地図上では「墓」とあるが、おそらくは「廟」であり、西安の城下に祀られているというのは、やはり彼が儒教国家中国において果たした功績の大きさを物語っているのだろう。
ただ、いわゆる文化大革命の批林批孔の嵐によって取り壊されなかったのだろうかという心配もあった。どのような姿で残存しているのか不明だが、もし見学できるのなら行ってみたいというのが出発前の気持ちだった。

筆者の提案はすんなりと同行メンバーには了承されたのだが、専用バスの運転手が、そんなところは知らないと言う。現体制の中国ならばさもありなんと地図を見せたのだが、ホテルに送って仕事は終わりと思っていた運転手は、行くのを渋った。近くで下ろしてくれたら後は歩いていくからということでなんとか話はつき、降ろされたのが碑林博物館の前だった。地図で見ると確かに近い。しかし、結果的にはここから優に三十分は炎天下を歩かされた。地図上では、西安城の南端の城壁を背にし、「東倉門」という通りと「和平路」という大通りにはさまれた一角に、その地点はある。途中何度か地元の人たちに確認したが、今でもあるかどうかは知らないが、地点としてはこの先だという答えだった。なんとかそれらしき場所に着いてみると、そこには人民解放軍の施設の看板が掲げてあり、その左手に重々しい屋根作りの壁面に囲まれた建物があった。見るからに「廟」である。人民解放軍の看板におびえつつ、その重々しげな建物の正門に向かってみると、門の横には「董仲所墓」という石標が建てられていた。

写真12で明らかなように、上記には「陝西省第一批重点文物保護単位」とあり、下記には「陝西省人民委員会一九五六年八月六日公布 陝西省西安市人民政府立」とあった。だが、門には「拡加索撮影基地(ピカソ撮影スタジオということか)」という看板が立てかけてあり、廟を利用して写真スタジオが営まれているようだった。その店の人に交渉して中に入らせてもらうと、廟(スタジオ)の中には写真13にあるように、董仲舒の大きな肖像画がかけてあり、今でもそこが董仲舒の廟だったという自覚はあるようだった。聞けば、その建物の裏側に、董仲舒の墓はあるという。

写真12 董仲舒墓の石標

写真12 董仲舒墓の石標

写真13 董仲舒の肖像画

写真13 董仲舒の肖像画


写真14 董仲舒墓

写真14 董仲舒墓

写真15 倒された石碑

写真15 倒された石碑




写真16 「重建董子廟記」と題された石碑

写真16 「重建董子廟記」と題された石碑

裏手にまわると五メートル四方の壁で囲んだ中に盛り土があり(写真14)、その正面に写真では上手く写らなかったが、プラスチック板で保護された「漢董仲舒之墓」という一畳弱の石碑が建てられていた。そして、その横には何枚もの倒されたり折られたりした石碑の石板が立てかけられたり、重ねて置かれていた(写真15)。その中に「重建董子廟記」と題された石碑文があり、ここが再建された廟であることが確認できた(図16)。残念ながら、その石碑も半分に折られており、全文は確認できなかったが、末尾に刻まれた年号は「康煕五十三年」とあった記憶がある。その記憶が正しければ、一七一四年に重建されたことになり、約三〇〇年が経過している。三〇〇年の時を経た建物かと問われれば、たしかに周囲の壁の造りや正面門の重々しさはそれなりの歴史を感じさせる風合いであった。

思いつきで訪れ、なおかつ夕刻だったこともあり、倒れた石碑などを詳しく調べることができなかった。もしもまた西安を訪れることがあれば、もう一度参詣したいと切に思わせる場所だった。ちなみにグーグルの航空写真で西安を検索し、地図に示されている辺りを見てみると、そこだけが五〇メートル四方の緑地帯として確認できた。

(菅本大二)

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